琵琶湖文化館 the Museum Of Shiga Pref
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第35話 国史跡崇福寺跡出土軒丸瓦

 琵琶湖から京都へ抜ける志賀越えの山道沿い、大津市滋賀里町の山中に、白鳳時代の寺院跡がひっそりと佇んでいます。今回ご紹介する館蔵品は、この崇福寺跡から出土した軒丸瓦です。
 かつて大津の地に都が置かれたことは、今でこそよく知られるようになりましたが、しばらく前までは「幻の都」とまで言われていました。その大津宮跡究明のために発掘調査を行ったのが、崇福寺跡です。平安時代の歴史書『扶桑略記(ふそうりゃっき)』には、遷都直後の668(天智7)年、大津宮の西北山中に瑞祥を見た天智天皇がそこに崇福寺を創建したと記されています。このことから、寺の場所を特定すれば大津宮の位置も明らかにできると考えられたのです。1928(昭和3)年と1938(昭和13)年の2回にわたる発掘調査では、3つの尾根上から塔や小金堂、金堂、講堂、弥勒堂跡が見つかり、さらに、塔の心礎からは瑠璃壺を納めた豪華な舎利容器(国宝)が発見されました。寺跡は史跡に指定されています。
 昭和13年の調査は、9月下旬の降雨の際に崩れた崖の土砂の中から、地元の方が瓦片を発見したことがきっかけとなって始められました。こういった個人の方の採集品の一部が、戦後になって県へ寄贈され、現在、琵琶湖文化館の館蔵品として引き継がれています。

 崇福寺の軒丸瓦には2種類のものがあります。一つは瓦葺き建物の創建時に使われた蓮華文軒丸瓦です(写真左)。瓦当の文様は、大きな中房のなかに中央の1個を中心に二重にめぐる蓮子(れんじ)を置き、その周りに複弁(2枚一組)となる8葉の花弁を配置するもので、外縁をさらに面違い鋸歯文(きょしもん)で飾ります。これは飛鳥の川原寺の瓦と同じ文様です。崇福寺は天智天皇の発願で建てられた寺院なので、天皇と密接な関係をもつ川原寺と同じ文様の瓦を用いたのは当然と言えます。
 もう一種類(写真右)もよく似た複弁の蓮華文軒丸瓦ですが、こちらは瓦当の外縁を幅線文(ふくせんもん)という密な放射状の短線文様で飾るもので、のちの補修用に使われたものといわれています。幅線文をもつ瓦は、渡来系氏族の氏寺である飛鳥の檜前寺(ひのくまでら)と同系統のものです。この種の瓦は、大津北郊の渡来系寺院に用いられ、その後、湖南・湖東などの寺院でも使用されました。このような瓦が崇福寺で用いられたということは、維持・運営にあたって渡来系氏族の協力があったことを示しています。
 天智天皇は、当時緊迫していた国際情勢に対応するために、製鉄や土木、航海などの技術に長け、制度や外交にも通じた渡来系氏族を重用しました。遷都の背景には、大津北郊をはじめとした近江に集住する渡来系氏族の存在をあげることができ、崇福寺の瓦はまさに、天智天皇と渡来系氏族との密接な繋がりを物語る証拠だと言えるでしょう。
 飛鳥の官人や民の反対を押し切って強行された遷都から、わずか5年足らずの671(天智10)年に、天智天皇は崩じます。そして翌年、壬申の乱の後、天武天皇が飛鳥浄御原宮に遷都したことから、大津宮は廃都となり、荒れ果てていきました。この一部始終を、都の鎮護のために建てられた崇福寺の屋根を飾った瓦は、いったいどのような思いで眺めていたのでしょう。本年2017(平成29)年は、遷都からちょうど1350年となります。
 崇福寺跡出土軒瓦は、大津市歴史博物館で開催の「大津の都と白鳳寺院」に出品しています(2017(平成29)年11月19日まで)。
                                                           

 (國分 政子)