琵琶湖文化館 the Museum Of Shiga Pref
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第36話 増田長盛・石田三成水論裁判状

 近年、「配下にするなら三成~♪」のCMでおなじみの石田三成(1560‐1600)ですが、そんな三成の豊臣配下としての仕事(政務)の一端を伝える資料が琵琶湖文化館にあります。それが右の「増田長盛・石田三成水論裁判状(裁許状)」です。

 三成は、近江国坂田郡石田村(現・滋賀県長浜市石田町)に生まれ、年少のころより、近江に入封(にゅうほう)した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉・1537‐1598)に仕えました。秀吉が本拠を大坂に移して以降は重臣として、いわゆる五奉行という重要なポストに就くなど、豊臣政権を大いに支えます。天正13年(1585)に秀吉が関白に任ぜられると、三成も治部少輔という官職に叙任され、本書状も署名、花押に「治部少輔」という肩書きをもって発給しています(左写真)。

 資料名にある水論(すいろん)とは、河水、井戸などの水源や用水施設の使用など「水」に関する相論の総称です。各々の勢力が多分に自治権を有していた中世(~室町時代)は、長年にわたって村々や社寺が用水権をめぐって争い、時には武力衝突をおこし、死者を出す場合もありました。しかし、近世(安土桃山時代~)以降は全国的な統一政権の確立、中央集権化に伴って徐々に用水秩序も整備されていきます。江戸時代になると訴訟制度も確立されて、武力衝突は見られなくなります。本書状は、まさにこの中世から近世への過渡期に位置する資料といえます。

 この裁判では、生駒山地西麓に所在する河内国河内郡の五条村と豊浦村(ともに現・大阪府東大阪市)間における「井水」の出入が問題となっており、同じく五奉行の増田長盛(1545‐1615)が三成とともに連署して裁定を下しています。裁定の内容は「先規(前からの掟)に基づいて以前の如く用水せしめよ」というもので、本書状を収納する一重箱の箱書(右写真)には、裁定によって結局、豊浦村の言い分が通り、勝利したと伝えています。また箱書から本書状は元々、豊浦村の中村四郎右衛門家に伝来していたものと推察され、三成と徳川家康(1543‐1616)が西軍と東軍に分かれて戦った関ヶ原の戦いの際に、中村家(中村四郎右衛門唯道)は東軍に味方し、そのことで五条村から大坂方へ訴えられ、召し捕らえられたことなども記されています。
 なお、次代の中村四郎右衛門正教の時に起こった大坂冬の陣では、徳川秀忠(1579‐1632)が京都から生駒山を南下して大坂へ向かう途上、この豊浦村の中村家に宿陣。翌年の夏の陣では、徳川家康が中村家に宿陣しています。中村四郎右衛門家の屋敷は今の枚岡中央公園の一画にあったとされ、現在、その跡地には石碑や記念碑が建立されています。
  豊臣政権下での三成の政務の一端を示す資料であるとともに、その後の顛末を伝える箱書が付属するなど、織豊期の村落の動向を考える上でも興味深い資料です。

 (学芸員 渡邊 勇祐)