琵琶湖文化館 the Museum Of Shiga Pref
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収蔵品

蛍図(ほたるず)  塩川文麟筆  1幅       江戸時代  本館蔵
 塩川文麟(しおかわ ぶんりん)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した日本画家である。伝統的な四条派の画風を基本に、中国の山水画を学び、文人画的な要素をその作風の中に取 り入れるなど、独自の画風を完成させた。文麟は、享和元年(1801)、京都太秦安井の蓮華光院(安井門跡)に仕える者の子として生まれた。父の跡を継ぎ安井門跡の侍臣となったが、文麟は元来 絵が好きで、門主が原在中(はらざいちゅう)(1750~1837)に絵を学ぶのを傍で見ながら、自らも見よう見真似の独学で絵を描いていた。そうした努力が門主の目にとまり、文麟の並々ならぬ画才 を見抜いた門主は、専門画家になることを薦め、文麟は松村呉春を師とする岡本豊彦(1773~1845)の門に入り、四条派の絵を学ぶことになった。豊彦のもとで絵の研鑽に励む文麟は、風景画が中 心であったが、花鳥画など何でもこなす技巧派として画域が非常に広く、伝統的な四条派の技法を受け継ぎながら、中国あるいは西洋の画風も積極的に取り入れるなど、創意工夫を常に試みた。
 文麟は安政2年(1855)、御所再建に際し常御殿の絵画制作に携わり、万延元年(1860)、皇女和宮降嫁の折り、その手鑑(てかがみ)用として近江八景図ほかを調進するなど、朝廷との関係も深 まる。文麟は、勤皇の画家として知られた浮田一蕙(うきたいっけい)や頼三樹三郎(らいみきさぶろう)とも交わり、時には幕府の執政について激論をかわしたが、一蕙などと違って、直接行動に移 すようなことはなく、「絵をもって朝廷に尽くすのが忠君の道である」と言って、喧騒の京を離れ、近江の日野に居を構え、必要な時に京都に出るといった生活を送った。日野は、五個荘・八幡な どとともに近江商人の地として有名で、富商は商売だけでなく、芸術家を育てるパトロン的な役割も果たしていた。
 写真の「蛍図」は、文麟にしては珍しい画題である。絹地全体に薄墨を施して夜景のふんいきをつくり、水辺の芦に止る蛍や飛来する蛍をあらわした愛すべき作品である。墨の濃淡により巧みに 遠近感あらわし、蛍の光のみ彩色を施して、蛍を際立たせている。また、空間を広く取って、画面の奥行きを感じさせるなど、技巧派の本領を見せる。文麟は、雨に煙った風景や暮かけてぼんやり した風景を得意とした。