日別アーカイブ: 2022年5月13日
「青鬼踊」原稿発見のナゾ?!
このたび、石山寺第50世座主であった故・鷲尾光遍(わしお・こうへん)師が作成した「青鬼踊」の歌詞原稿が、当館の資料の中から発見されました【詳しくはコチラ】。
「青鬼踊」は、石山寺で毎年5月に行われる青鬼まつりの中で、蛍の精と青鬼が酒を飲み交わして踊るもので、唄の作詞を鷲尾光遍師が手掛けられました。
実はこの「発見」については、いささかナゾがございまして・・・というのも、①原稿が鷲尾光遍師の自筆かどうかについては研究中で、②なぜ琵琶湖文化館に残されていたのかも不明・・・なのです。おやおやこれ如何に・・・・・?
そこで登場するのが名探偵あきつ君♡見た目はトンボで頭脳はコドモ!しばしあきつ君の迷(?)推理にお付き合いくださいませ(笑)。
さて1つめ、鷲尾光遍師が直々に書かれたのか?という謎です。 これは表紙をよ~くご覧ください。「青鬼踊 鷲尾光遍作詞」とあります。他の人が書き写したものであれば、石山寺の長たる「座主」さまに対して、名前を呼び捨てにするワケがない、少なくとも「鷲尾光遍師 作詞」など敬った言い方をするだろう・・・というのがあきつ君の見解です。出た!迷推理!!
更に・です。鷲尾光遍師は昭和34年(1959)、滋賀県立琵琶湖文化館建設後援会発起人代表の一人となるなど、琵琶湖文化館の建設や初期の活動に積極的に関与されています。当館には、師が書かれた「書」もございます。このあたり、2つめの謎とも関係してくるのですが、師と当館との親密な関係性がうかがい知れます。座主自ら書かれたものだから「光遍作詞」。皆さん、いかがでしょう?
あきつ君の迷推理は続きます。2つめ、なぜ琵琶湖文化館に残されていたのか?という謎については、「三」の歌詞にご注目ください。
かがやく光は 不夜城の
とてもよいとこ よいながめ
気付かれました?これって当館のコト・・・なのでは?当館の開館は1961年、師が亡くなられたのは1967年(88歳)。
当時の文化館は夜になると本館頂上のトンボをはじめ、各階に設けられた照明設備が煌々と点灯し、周囲の漆黒とも相まってさながら不夜城のようだと言われています。ましてや5階は展望閣、琵琶湖の眺めも最高です。 ・・・これは間違いない、文化館のことを唄っている。。。そのご縁もあって、師からこの「直筆」の原稿を頂戴したのでは? ・・・と、あきつ君は申しております。
ふむふむ、そう考えると「光遍作詞」という書きぶりも、なんだか幾分、師の照れ隠し(?!)的な要素が感じられないこともない?・・・師は、ちょっぴりお茶目な方であったのではないでしょうか、この青鬼踊の楽し気な詞からも、そのお人柄が偲ばれるようです。
さて、如何だったでしょう、名探偵あきつ君の迷推理!お楽しみいただけました?あくまでトンボのあきつ君が申しておることでございます。笑ってお許しいただければ幸いです。さて、あなたの見解は?真相や如何に??
追記:皆さんにはこちらの方が謎かも?↓ ↓
① 何故、石山寺で青鬼踊りなのか。平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて活躍した、石山寺屈指の学僧:朗澄律師(ろうちょうりっし)は、自分の死後、鬼となって経典・聖教類を守ることを誓ったと伝わっています。その遺徳を称えるお祭りが青鬼踊りです。長らく踊りは絶えていましたが、2019年の令和改元を祝って復活し、今年は5月15日(日)に行われます。
② 何故、歌詞にたくさん「蛍」が出てくるのか。古くから瀬田川の河口付近はたくさんの蛍が飛び交う蛍の名所として有名でした。「青鬼踊」の歌詞では、蛍の精と青鬼がお酒を酌み交わし、そのもてなしのお礼にと青鬼は如意の珠を授けます。その宝珠の威光で、蛍の精はいよいよ美しく瞬いた、という歌詞になっています。