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「金ヶ崎城跡碑」その内容に迫る!

金ヶ崎古戦場碑(福井県)

 前回、ご紹介しました金ヶ崎城跡には、滋賀県知事の籠手田安定(こてだ やすさだ・1840~1899)が文を書いた石碑があります。敦賀にある石碑になぜ滋賀県知事が!?という謎については、ブログを読んでいただけると、なるほどー、と思っていただけるかと。

 さてさて、実は琵琶湖文化館には、金ヶ崎城跡碑の拓本が所蔵されています!何という幸運!!明治11年(1878)8月12日、滋賀県令の籠手田安定が撰文し、熊谷武五郎(くまがい たけごろう・ 1842~1902)が本文と額の文字を書きました。熊谷武五郎は、出羽国仙北郡(現在の秋田県仙北郡)にある社家に生まれ、幼い頃より国学を学び、岩倉具視や渋沢栄一にも一目置かれた人物です。習字も得意とした武五郎ですが、なぜここに!?と思われるでしょうが、熊谷はわずか6年だけ存在した敦賀県の初代知事だったんですね。その敦賀県は、明治9年(1876)8月21日に滋賀県に合併されます。海あり滋賀県がここに生まれましたわけですが、この石碑は、敦賀県と滋賀県との共同制作ともいえるでしょう。

金ヶ崎城跡碑(拓本)琵琶湖文化館所蔵
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 その碑文の内容は、次の通りです。後醍醐天皇擁する南朝の忠臣である新田義貞(にった よしさだ)は、北朝方との戦を経て、恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に赴きます。北朝からの迎撃をこの金ケ崎城にて守備していたものの、起死回生をはかり、義貞は弟の義助を遺し城を脱出します。その後、兵糧攻めにあった金ケ崎城では八百人の軍勢が亡くなり、僅か12人の手勢で逃れた恒良親王も捉えられてしまいます。延元2年(1337)、義貞は黒丸城を攻め、藤島にて戦死しました。この敦賀にて共に斃れた親王、義貞を悼み、籠手田は三首の和歌を詠みました。地元の有志が石碑を建て南朝の人びとの事跡を残すにあたり、当時、滋賀県令であった籠手田にその撰文を依頼し、同じく初代敦賀県令の熊谷武五郎に額と本文の書を依頼したものです。

 琵琶湖文化館にある拓本は、元々、膳所藩出身の斎藤求(さいとう もとむ/ 求馬とも、号は虚心斎)(1852~1926)が所蔵していたもので、斎藤求は警察官として京都に赴任した際に、縁あって巌谷一六(いわや いちろく・1834~1905)の生母(瑞松院)のお世話をしていたことから、一六をはじめ日下部鳴鶴(くさかべ めいかく・1838~1922)など当時の書画家とも交流していました。その後、求の孫である浅見美都里氏とその夫の素石(そせき・1923~2006)氏により、その所蔵品の書画およそ40件が平成17年(2005)に琵琶湖文化館へ寄贈されました(詳細な経緯は、令和6年(2024年)地域連携企画展図録『近江ゆかりの書画―古写経から近代の書まで』のコラムをご覧ください)。

  現在も金ヶ崎城跡に建つ石碑は、その歴史を伝える貴重な文化財です。とともに、この文化財に刻まれた碑文を記録するために、拓本は重要な保存技術といえます。琵琶湖文化館と金ヶ崎城との不思議な御縁をつなぐ貴重なコレクションの存在を、ぜひお見知りおきください。

ちなみに皆さん覚えてますか? 滋賀県令の籠手田安定、過去に当ブログで紹介しましたよ! NHK連続テレビ小説「ばけばけ」で佐野史郎さんが演じた島根県知事の江藤安宗。そのモデルとなったのが籠手田安定!でした♪(2025.10.28付け:朝ドラに滋賀県ゆかりの人物が登場しています!

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