張 月樵(ちょう げっしょう)は、安永元年(1772)彦根城下の職人町(現 本町)に生まれた。父総兵衛は表具師であり、月樵が幼少より絵を描いていたのは、家業の環境が影響していたようである。成長した月樵は、京都へ出て本格的に絵の修行をする。まず師として頼ったのは同郷の坂田郡醒ヶ井出身の画家市川 君圭(くんけい)であり、その後、松村月溪(げっけい)に師事した。月樵の号は、この時師より“月”の字を貰ったものだ。松村月溪は、最初与謝蕪村に師事し、蕪村没後円山応挙に入門し、呉春(ごしゅん)と号を改めた。呉春は後に弟の景文(けいぶん)とともに四条派を率いることになる。師匠が円山応挙に入門したため、弟子である月樵もまた、何らかの形で応挙の影響を受けることになり、さらに、応挙の門人のたちと親しく交わる機会が増え、特に長沢芦雪(ろせつ)と親しくなっている。
活躍が認められた月樵は、尾張徳川家の御用絵師となり、城内の杉戸、屏風、ふすまに花鳥山水図を多く描いた。また藩主から幕府に献上された月樵の絵が、当時江戸で著名であった谷文晃の目にとまり、その絵を激賞している。
「長春孔雀図」は、岩上に立つ孔雀を描いたもので、長く垂れる孔雀の尾が特徴的である。画題の「長春」は、コウシンバラの別名で、画面上部から孔雀の尾の下にのびるバラの枝が画趣を高めている。