湖上にお城ができるまで -写真アーカイブ-
琵琶湖文化館は、昭和36年(1961年)3月20日に開館しました。現在の浜大津から膳所に至る琵琶湖岸は、昭和30年代中頃から順次埋め立てが行われており、辺りの造成が進む中で、琵琶湖文化館の建築が始まりました。
「湖上に建つ浮城」がどのように建てられていったのか、建設工事の様子を撮影した懐かしい写真で紹介します。 出来上がっていく過程をお楽しみ下さい。
(昭和35年に作られた開館予告のポスター)
昭和30年代半ばの風景です。琵琶湖文化館が建つ打出浜は、昭和34年に埋め立てが完成しました。
昭和35年頃、埋立地の向こう側には元々の民家が多く建ち並んでいます。(現:京阪電車路線の南側)
当時は「滋賀県観光文化館」として建設が予定されており、その「起工式」は、琵琶湖岸の埋立地で開催されました。
昭和35年4月18日、建設に向けての起工式が、工事請負社の主催で行われ、多くの関係者が列席しました。
湖岸から、神主が船に乗りこみ、修祓(四隅祓)に向かわれます。
船上では杭打式が行われました。杭を打込むための木槌が今まさに、振り下ろそうとされています。
湖岸で祈願する関係者たち。
(中央は滋賀県初代民選知事・服部岩吉氏)
起工式後の直会(なおらい)。当時の滋賀県知事である谷口久次郎氏(写真中央)が挨拶されています。
帰路につく関係者たちの様子。
現在とは違う車の形も、昭和30年代を知ることができる一枚です。
昭和35年5月、浮城建設にむけて工事が始まり、更地の中に工事請負会社の事務所が建てられました。
ワイヤーを巻く機械が用意され、建設現場の止水作業がはじまります。
琵琶湖上に木製の足場が組まれています。船からサポートする作業員の姿も。
昭和35年5月20日から、琵琶湖の水を締切る鋼矢板(シートパイル)の打込みが始まりました。
ワイヤーと滑車を使って支柱の上に引き上げた錘(おもり)を、鋼矢板めがけて落とします。
鋼矢板を打込む作業員たち。写真中央の人は、錘を落とすためワイヤーを操作しています。
昭和35年5月27日、琵琶湖に打込まれた鋼矢板。
これで湖水を堰き止めます。
昭和35年6月12日
湖岸ではショベルカーが稼働しています。
湖岸側に打込まれた鋼矢板。土砂が堰き止められています。
鋼矢板によって琵琶湖と完全に隔離されています。内側の水面はまるで鏡のように穏やかです。
6月16日、堰き止めた内側の水をポンプを使って汲み出しています。
鋼矢板の内側の足場に、資材を運ぶためのレールが敷かれました。
昭和35年7月、鋼矢板の内側に土砂を流し込むため、湖側から船を寄せ、ベルトコンベアを使った作業が行われています。
昭和35年7月20日、完全に湖水の締切りが完了し、いよいよ鋼矢板内側での作業が始まります。
バケットクレーンによる土砂取りの作業が行われています。見守る作業員の姿と比べると、鋼矢板の高さがいかに高いかが分かります。
レトロ感あふれるボンネットトラック。
土砂の搬出にパワー全開です。
仕切られた内側の半分の土砂が取り除かれました。
湧水か、雨水でしょうか?作業される方の苦労が偲ばれます。
昭和35年8月1日、コンクリート杭を試験的に打込み、荷重耐久調査が行われました。手前の作業員がワイヤーを操作して錘を何度も上下させています。
8月6日、本格的にお城の基礎となるコンクリート杭の打込み作業が、進められています。
炎天下の中、コンクリート杭を打込むために麦わら帽子をかぶり、打込み機の下で作業をする作業員たち。
8月9日、お城の中心部に基礎となるコンクリート杭を打込む作業が完了しました。
これが、今の文化館の土台を支えてくれています。
昭和35年8月9日、コンクリートミキサーの運転が始まり、専用の鉄塔とセメント小屋が建てられました。
石敷のところで、手押し車を使いコンクリートを運ぶ人。
近くには、スコップを使って、手作業でコンクリとを広げる作業員の姿もあります。
昭和35年8月10日基礎地鎮祭が行われました。
基礎柱の上で木槌を握るのは、琵琶湖文化館の初代館長となる草野文男氏(当時の滋賀会館館長)です。
急ピッチで進む基礎工事。手押し車を押して作業する人々の姿が当時の工事の様子を伝えてくれます。
昭和35年8月24日、琵琶湖文化館の本館・別館・連絡館すべての土台となるコンクリートが、一週間をかけて敷き終わりました。
8月28日、基礎部分の強度を上げるため、コンクリートの上に鉄筋が張りめぐらされています。
さぁ!いよいよ、ここにお城が建っていきます。