広瀬柏園(ひろせ はくえん)は、名を明、字を十哲と称し、柏園・老幅軒などの号があります。享和元年(1801)、町人代官の広瀬治良右衛門順固の子として彦根四十九町(現在の城町)に生まれました。父は画家としても活躍した人で、岸駒(1749~1838)に師事し、牛馬の絵を得意としたといいます。
岸駒の画法を父より学んだ柏園は、岸駒の生き方をまねしたのか、定まった師につかず、独学で画法を習得しました。柏園は初め井伊家に仕えましたが、のちに大津に出て、三井寺の円満院門跡・覚淳法親王に仕えました。円満院門跡といえば、芸術家のパトロン的な存在としても有名でした。覚淳もまた芸術に造詣が深い教養人であり、柏園の他に京焼の陶工・永楽保全を招き、門前に窯を築いて「三井御浜焼」(湖南焼)を焼成しました。覚淳を通じて柏園と保全は親交を深めたようで、保全が作った陶磁器に、柏園が絵付けした作品が残されています。
安政2年(1855)年より始まった安政度内裏造営に際して、当時京都を中心に活躍していた画家が総出で障屏画を完成させましたが、その中に広瀬柏園の名があります。この一大事業に柏園が参加できた背景には、円満院覚淳法親王の尽力があったことは言うまでもありません。柏園が担当したのは、京都御所内の皇太子の御殿である御花御殿の南御縁座敷中仕切りの杉戸絵であり、表裏二面には、柏園が得意とした中国故事が描かれています。
「武陵桃源図」もまた、中国故事によるもので、武陵の漁夫が道に迷って、桃花が咲き乱れる仙境にたどり着き、その村で歓待を受け、帰るのを忘れるほどの穏やかな時を過ごしたという、「桃源郷」の語源になった故事を描いたものです。図は、桃花が咲き乱れる山深い仙境の地に集う人々を表しています。 柏園はこのような中国故事を題材にしたものを得意とし、多くの作品を残していますが、俳句にも優れ、「湖上半漁」の俳名を用い、得意の絵をいかして洒脱な俳画も多く描いています。本図の人物の描写が、やや俳画風なのは、いかにも柏園らしい表現であると言えます。
大津を活躍の場とした柏園の事跡を示す作品としては、大津祭り曳山「神功皇后山」の天井画があります。柏園にしては珍しい花鳥図ですが、丁寧な描写が印象的です。曳山の天井画を描くということは、大津の町衆に認められたという証しでもありましたが、生活はあまり楽ではありませんでした。それは、求めに応じて気さくに絵を描いても、必要以上に料金をとることはなかったからで、柏園の人柄をよく表しています。「清貧」という言葉がありますが、まさにそうした画人生活を全うした柏園は、明治4年(1871)9月17日、71歳でその生涯を閉じました。
( 上野 良信 )