亀田鵬斎(かめだ ほうさい)は江戸時代後期の儒学者であり、文人画家である。幼少より書を習い、14歳で医学塾「躋寿(さいじゅ)館」に入り、 折衷学(古学・朱子学・陽明学それぞれの長所を選択折衷して穏当な学説の提出を試みた学派)を唱える井上金峨について儒学を学ぶ。安永8年(1779)頃より、「論語撮解(さつかい)」などの著述を通して、学友山本北山とともに荻生徂徠(おぎゅう そらい)の学説を批判し、寛政2年(1790)、老中松平定信が断行した寛政の改革の一つとして行われた「寛政異学の禁」に際しても、幕府の官学を朱子学に統一しようとする動きに、真っ向から反対論を唱え異学者の筆頭にされた。
鵬斎は晩年、旧友の酒井抱一、谷文晃とともに詩、書、画に親しみ、これに大田南畝(蜀山人)、鍬形蕙斎らが加わりにぎやかな交友関係を楽しんだ。特に画は、中国文人が理想とした「胸中山」という、心の中に想い描く理想郷の山水画を得意とし、一種の禅味のある山水画は、詩文家の描く文人画として人気があった。
鵬斎は優しい人柄でも知られ、浅間山大噴火:天明3年(1783)による難民を救済するために、全ての蔵書を売り払ったり、赤穂浪士の忠義に感動し、私財を投じて高輪の泉岳寺に記念碑を建てたというエピソードが残されている。