江戸時代中頃に興った復古主義的文学運動である「国学(こくがく)」は、幕末に至り、一つの思想にまで発展し、特に若い人々を強く惹きつけた。『万葉集』や『古事記』などの古典研究を通じて、仏教・儒教伝来以前の日本固有の文化を究明しようとしたものであるが、一方では、古来より続く皇室を中心とする尊皇思想の源として、幕末から明治維新の世を支配した。こうした風潮は、絵師の世界にも影響を及ぼし、田中訥言(とつげん:1767~1823)は、当時大和絵系の画派であった土佐派や住吉派にかわって、大和絵を古代(平安・鎌倉時代)の姿に戻すことを主張し、大和絵の古法を学び、伝統の復活に努めた。いわゆる国学の復古運動の絵画版である。
浮田一蕙(宇喜多一蕙:うきた いっけい)は、寛政7年(1795)京都に生まれた。一蕙はこの田中訥言に師事し、はじめ土佐派の画風を学び、訥言没後も大和絵の古法を研究しつづけるなど、真に深く訥言の薫陶を受けた人であった。画風はもとより、思想も師の影響を強く受け、古典を学ぶうちに次第に尊皇攘夷の運動に傾斜していった。一方では、古典を題材とする画風が認められ、禁裏(御所)御用を賜るなど、絵師としての栄誉に浴した。嘉永6年(1853)、米国ペリーの来航の際、平素から熱烈な国粋論者であった一蕙は攘夷を主張し、幕府の対応を痛烈に批判している。一蕙は、熱烈な尊皇攘夷思想者として、わが子可成(よしなり)とともに、世に言う「安政の大獄」に連座して捕らえられ、京都での取り調べののち、更なる吟味が必要と、唐丸駕籠(とうまるかご)で江戸に護送され取調べの結果、父子は事件の関係者としては案外の軽罪で済み、翌安政6年所払刑となり、いったん帰京するが、一蕙は不衛生な獄中で得た病が治らず、かつ精神的な疲労が重なって、ついにこの年54歳で没した。後日談であるが、文久2年(1862)、幕命によって、一蕙親子の罪名は免ぜられた。さらに一蕙の尊皇愛国の忠誠が認められて、明治24年(1891)従四位の官位が贈られた。