「大津絵の筆のはじめは何仏」と、芭蕉の有名な句にあるように、初期の大津絵は阿弥陀などの仏画でした。中でも、現在最も多く残されているのが青面金剛(しょうめんこんごう)を描いたものです。それは、青面金剛が「庚申待(こうしんまち)」の本尊として、広く庶民に信仰されたからです。
「庚申」は江戸時代に爆発的に流行し、全国津々浦々に広まった庶民信仰です。現在まで続いている所も多く、庚申の日に人々が堂に集まり、夜を徹して様々な事を祈り、酒宴を開いて語り明かす、要するに一晩中眠らないということが最も重要なのです。
庚申信仰は、中国の道教思想に基づくもので、人間が本来の寿命(一説では125歳)を全うできないのは、人間の体内に生まれながら宿る「三尸(さんし)」という三匹の虫のせいだとし、この三尸が、庚申の日の夜、人が眠っている間に身体から抜け出て天に昇り、天帝にその人の行いの善悪を告げ、天帝がその罪科によってその人の寿命を縮めるといわれました。三尸がぬけだす庚申の日の夜は、一晩中眠らなければ三尸は出てこれない、ということで始まったのが「庚申待(こうしんまち)」という行事なのです。庚申信仰でははじめ、釈迦・薬師などを本尊としていましたが、江戸時代に入って青面金剛を本尊に祀るようになり、広く民間に広がりました。本来、庚申信仰と無関係だった青面金剛は、伝尸(でんし)(結核などの感染症)という伝染病から守ってくれるほとけであったところから、伝尸と三尸を関連づけたものと思われます。
「庚申待」は、元来は一人静かに夜明けを待つだけでしたが、次第に大勢集まった方が効果があるとして「講」というグループがつくられ、一定期間続ければ、所願が成就し、無事終了したことを記念して「庚申塔」「庚申塚」が建てられました。さらに専用のお堂「庚申堂」ができるなど、庚申信仰の広がりはすさまじく、中には「庚申の代待(だいまち)」と言われる庚申待の代行業も登場する始末です。やがて「庚申待」は、長命・家内安全・五穀豊穣などを祈る場、情報交換の場、酒を飲みごちそうを食べて語り合う場など、何でもありの会となっていきました。そうした中にも、肉や魚を食べることが禁じられるようになったりしました。また、庚申の日は60日ごとに回ってくるので、1年では基本的に6日ですが、端数の繰越などで、年7日、年5日の年がでてきます。七日庚申、五日庚申と言われるもので、7日の年は豊作、5日の年は凶作と信じられていたようです。
この『青面金剛図』は、身体は青色、目は額に一目を加えた三眼にし、髪を逆立て、怒りの形相で足元に邪鬼を踏んで立つ姿で、右手に三鈷戟(げき)と宝棒、左手に輪宝と羂索(けんじゃく)を持つ四臂像です。首に髑髏(どくろ)の瓔珞(ようらく)を飾るのは、密教の明王像に通ずるものがあります。両脇に、柄香炉を捧げる二童子を添えるのも、三尊像を意識したものでしょう。上部には日輪と月輪を配し、下辺には三猿と二羽の鶏が描かれます。鶏や日月を配するのは、庚申待が徹夜の行事であり、夜明けを待つ人々の祈る心のあらわれでしょうか。猿神については、庚申の申(さる)から猿が付されるとか、庚申信仰が天台系の修験道を通じて広まったため、天台の守護神である猿神が描かれるのだと言われていますが、確かなことではありません。三猿にするのは三尸にあわせてのことで、「見ざる・聞かざる・言わざる」は、三尸の天帝への告げ口を防ごうという意図のあらわれでしょう。
( 上野 良信 )