坂本に鎮座する日吉大社の神々を、垂迹身の姿で描いたもので、日吉山王曼荼羅図と呼ばれている絵画です。“垂迹”とは「本地垂迹信仰」の中で生み出された言葉で、神の本体は仏(本地)であり、その仏が現世の衆生を救うため仮に神祇の姿を取って現れたもの(垂迹)という意味を持っています。神々の姿を本地の姿で描いた本地仏曼荼羅に対して、本図のような絵画を垂迹曼荼羅とも呼びます。
本図の最大の特徴は、画面最上段に描かれた七基の御輿と北斗七星です。北斗七星は一部が欠損していますが、日吉七社と北斗七星を関連づける中世以降の山王信仰の有り様を示しています。また御輿は、中世に遡る山王御輿の姿を知る手がかりとしても貴重です。
画面は鳳凰の模様が表された錦の幔幕と朱塗の高欄に囲まれた社殿の形を取っています。画面の中央には、四頭の龍が表された後屏の高い須弥座に坐す大宮(大比叡)の姿が堂々と描かれています。大宮は冠を被った唐服姿であることが特徴です。その周囲には、僧形(大宮の左隣が二宮、大宮の右隣が聖真子、大宮の左下が十禅師)、男神(大宮の左上が八王子)、女神(大宮の右上が三宮、大宮の右下が客人)の六神が囲繞して上七社を表しています。
段下には、中七社・下七社の神々が描かれています。中段には中央に猿身神である大行事の姿があり、その右横には牛頭の牛尊が描かれています。男神は束帯姿や角髪を結った本朝風ですが、女神はみな唐装となっています。
本図では、広縁に比叡山を守護する神の姿も描かれており、中央に竹生島弁才天、その左に赤山明神、右に泰山府君が姿を見せ、いずれも朱塗りの鳥居を背負っています。その両脇に描かれた男女は、本図の願主かもしれません。また、階を降りた神庭には神猿が遊ぶ姿も描かれています。
全体に濃密な色彩が特徴で、金泥を多用した装飾的な絵画となっています。とくに、下地に白色顔料を塗り、その上に金泥を重ねて盛り上げるように彩色をしており、制作年代が下がることを示しています。
正源寺は曹洞宗の寺院で、元は吉祥坊という名の真言宗寺院であったと伝えられています。元和元年(1615)に梵梁和尚が入寺して正源寺という名に改められました。
本図が正源寺に伝えられた経緯は不明ですが、近江全体に広がる山王信仰との関わりを示すものとも推測されます。湖北を代表する垂迹画の一幅です。 |