比叡山の東麓にある日吉大社(以下、日吉社)は、全国に約3800社あるとされる日吉、日枝あるいは山王社と称される神社の総本宮です。さらに、その中核をなすのが西本宮(旧名は本宮)と東本宮(旧名は二宮)です。通説では西本宮に祀られる大己貴神(おおなむちのかみ)は大津宮を守護する神として、天智天皇が大和国三輪山より大三輪神を勧請したものとされ、一方、東本宮に祀られる大山咋神(おおやまくいのかみ)は『古事記』にもその名がみえる在来の神(地主神)であるとされます。
やがて山上に延暦寺が開創されると天台宗との強い結びつきのなかで発展し、日吉社の神々が仏教的に「山王」、「山王権現」と称されるようになり、神仏習合が展開していきます。そして、このような勧請神と地主神が併存した信仰形態、神仏が習合した一連の様相をうかがい知ることのできる祭事が山王祭であるといわれます。
しかし、慶応4年(1868)の神仏判然令(神仏分離令)公布以降、日吉社と延暦寺の関係はほぼ断たれ、元々、延暦寺と日吉社が一体となって執り行われていた山王祭も様変わりしてしまいました。故にそれ以前の山王祭の様相を知ることは容易ではありません。
そんな中で重要となってくるのが今回ご紹介するような日吉祭礼図です。琵琶湖文化館が所蔵する本図は文政5年(1822)制作の年記があり、江戸時代後期、すなわち神仏分離以前の様子を今に伝えてくれます。また一般的に日吉祭礼図は、その荘厳さ、華やかさから鑑賞用として屏風装に仕立てられることが多いのですが、本図は全長約20mにおよぶ巻子装で、図だけでなく、それを説明する詞書が随所に書かれています。また、奥書からは日吉大社の祝部(神職)である生源寺業蕃が絵を、生源寺希烈が詞書を書いたことがわかり、観賞用というよりもむしろ各儀礼の詳録、伝承を目的として制作されたものだと推察されます。
祭事の見せ場を断片的に伝える絵画資料が多いなか、本図のように各儀礼の全容を図解する資料は大変貴重なものであるといえます。
やがて山上に延暦寺が開創されると天台宗との強い結びつきのなかで発展し、日吉社の神々が仏教的に「山王」、「山王権現」と称されるようになり、神仏習合が展開していきます。そして、このような勧請神と地主神が併存した信仰形態、神仏が習合した一連の様相をうかがい知ることのできる祭事が山王祭であるといわれます。
しかし、慶応4年(1868)の神仏判然令(神仏分離令)公布以降、日吉社と延暦寺の関係はほぼ断たれ、元々、延暦寺と日吉社が一体となって執り行われていた山王祭も様変わりしてしまいました。故にそれ以前の山王祭の様相を知ることは容易ではありません。
そんな中で重要となってくるのが今回ご紹介するような日吉祭礼図です。琵琶湖文化館が所蔵する本図は文政5年(1822)制作の年記があり、江戸時代後期、すなわち神仏分離以前の様子を今に伝えてくれます。また一般的に日吉祭礼図は、その荘厳さ、華やかさから鑑賞用として屏風装に仕立てられることが多いのですが、本図は全長約20mにおよぶ巻子装で、図だけでなく、それを説明する詞書が随所に書かれています。また、奥書からは日吉大社の祝部(神職)である生源寺業蕃が絵を、生源寺希烈が詞書を書いたことがわかり、観賞用というよりもむしろ各儀礼の詳録、伝承を目的として制作されたものだと推察されます。
祭事の見せ場を断片的に伝える絵画資料が多いなか、本図のように各儀礼の全容を図解する資料は大変貴重なものであるといえます。
( 渡邊 勇祐 )
※「日吉祭礼図」は、令和4年(2022)2月5日から4月3日まで、県立安土城考古博物館で開催された、地域連携企画展「伝教大師最澄と天台宗のあゆみ」に出展されました。