琵琶湖文化館 the Museum Of Shiga Pref
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近江の文化財

 月下狸図     岸竹堂 筆   1幅     近・現代   個人蔵

 今回ご紹介するのは、岸竹堂の「月下狸図」です。岸竹堂は、文政9年(1826)、彦根藩士寺居孫二郎重信の三男として彦根城下に生まれました。幼名を米吉といい、名は昌禄、字は子和、通称は八郎。竹堂は号で、他に残夢、真月、虎林、如花などがあります。武芸よりも絵筆のほうが得意であったようで、11歳の時に父と同じ彦根藩士で狩野派の絵師であった中島安泰に絵の手ほどきを受けることになりました。竹堂は安泰のもとで数年を過ごし狩野派の基礎を学び、17歳の時、安泰の勧めもあり、当時京都で最も有力な絵師であった狩野永岳に師事することになりました。しかし、粉本主義の狩野派の指導法に疑問を感じたのか、わずか一年ほどで永岳のもとを去り、翌年岸派三代目の岸連山の内弟子となりました。

 岸派初代の岸駒は、円山応挙などと同時代の絵師で、独学ながら写生画に中国・宋画の画法を加味した独特の画風で一派を築きました。こうした岸派の画風が竹堂に合っていたのか、技量の向上はすばらしいものがありました。内弟子としての厳しい修行も十年近くが過ぎたころ、安政元年(1854)29歳で連山の娘と結婚し、岸派四代目を継ぎました。竹堂の号も連山より与えられたものであり、徹底的に写生にこだわった竹堂は、円山派の長沢芦雪に私淑し、その構図法を学び一段と飛躍を見せました。しかし、幕末の動乱期に至り、師・連山も亡くなり、禁門の変で家を焼かれ、描きためた写生帳や初代以来の膨大な画稿も全て焼失してしまいました。この時代、いくら高名な画家であっても、絵筆だけでは食べていけない時代であったため、竹堂も生活のため、様々な職につきますがどれもうまくいきませんでした。

 そんな境遇に関心を持ったのが、京友禅の老舗「千總」の12代当主、西村総左衛門でした。竹堂に友禅染の下絵制作を依頼しました。生活が困窮しているとはいえ、当時の一流の画家が友禅の下絵を描くなど画期的なことではありましたが、竹堂はこれで糊口をしのぐことができ、竹堂の流麗な意匠により、千總の友禅は一世を風靡したのです。 生活が安定した竹堂は、明治13年(1880)に新設された京都府画学校の教員となり、後進の指導にあたる一方、自らは新たに大作にも取り組みはじめ、内国勧業博覧会などに出品するなどしています。竹堂は、徹底した写生を基本に、西洋絵画の陰影法や遠近法を採り入れた新しい日本画を構築しました。明治29年(1896)帝室技芸員となり、京都画壇の頂点を極めますが、翌年72歳で波乱の生涯を終えました。

 図版は、竹堂が得意とした動物画で、月光に照らされた秋の河原にひそむ2匹の狸を描いたものです。月にかかる雲は、濃淡の墨であらわし、ススキ、野菊を添えて秋の風情を見せています。月を見上げる狸の表情は穏やかなものとなっており、晩年の竹堂の心情を映しているようです。

( 上野 良信 )