琵琶湖文化館 the Museum Of Shiga Pref
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近江の文化財

紙本金地著色 源平合戦図  狩野氏信 筆  6曲1双 江戸時代 (17世紀)
(しほんきんじちゃくしょく げんぺいかっせんず かのううじのぶ ひつ)
  本館蔵
   法量 (各) 縦 157.3 × 横 350.4cm
 屏風は複数のパネルを連続して折り畳んで部屋の仕切りとした家具で、中国で発祥しました。日本では鎌倉時代に紙製の蝶番が発明されて構造が大きく改良され、屏風絵の画面として可能性が広がったことで、美術品として発達していきます。とくに、画面を黄金で加飾した豪華な金地の屏風絵は日本独特の美術品で、大名や富裕層に好まれたのみならず、アジア諸国やヨーロッパの王らへの進物としてもてはやされました。

 館蔵の「源平合戦図」はそうした金地屏風の作例で、しばしば教科書や参考書類にも図版が掲載されるなど、琵琶湖文化館を代表するスター級の屏風絵です。それぞれ6画面が一続きになった「右隻(うせき・右の片方)」と「左隻(させき・左の片方)」の2つの屏風がワンセットで、まとめて「1双」と呼びます。
 『平家物語』源平合戦の名場面のうち、右隻には「敦盛最期」を、左隻には「那須与一」のエピソードを描いています。
 「敦盛最期」というのは一の谷の合戦で源氏に敗れた平氏一門が船に乗って海へと逃げていく中、源氏方の熊谷直実(くまがいなおざね)が海岸で平敦盛を呼び止め、一騎打ちを挑む話です。作品には一本の松の木を隔てて、向かって右に扇をかざして招く直実、左の浜辺には直実の声に応じて振り返る敦盛が描かれます。連銭葦毛(れんせんあしげ)の白馬にまたがり、鶴紋をあしらった直垂(ひたたれ)の上に萌黄威(もえぎおどし)の鎧を着て、鍬形を打った兜をつけた敦盛の姿は、まさに『平家物語』で語られる通りに精緻に描きこまれています。数え年16~17歳で、薄化粧してお歯黒をつけ、「容顔美麗」だったと称えられる敦盛の美少年ぶりについても、丁寧に描写しています。
 左隻には「那須与一」の場面。屋島合戦で、源氏方の那須与一が平家の軍船に掲げられた扇の的を見事に射抜くシーンが描かれています。与一から、平家の女房が手に持つ日の丸扇までの距離は7段(約72メートル)。本作では、与一を見守る源氏方の騎馬武者たちや松の茂みが密に描きこまれて近景を強調し、遠景の扇の的との遠い距離を巧みに表現しています。かなめを射抜かれて宙に舞う紅扇の描かれ方も見事です。この後春風に一揉み、二揉みされて海に落ち、夕陽に照らされ白波に揺られたという物語の「続き」が、ひとりでに目に浮かぶようです。




 

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 落款には「藤原氏信毫」と記され、印も捺されますが印文は判読困難です。画風は明らかに狩野派のもので、狩野氏信の筆とわかります。ただし、狩野派の絵師の中には狩野有益氏信と狩野大学氏信の両名があって、現在のところどちらの氏信が描いたものかは明らかにできていません。いずれにせよ、17世紀の狩野派による合戦図屏風の代表的傑作であることには間違いがないでしょう。

 なお、興味深いのは本作に描かれた主要登場人物である熊谷直実と那須与一の子孫がともに、近江国にゆかりが深いことです。熊谷直実の子孫である熊谷直心(くまがいちょくしん:1639~1731)は近江に生まれて竹生島に寄寓(きぐう)し、のちに京都の薬種商「鳩居堂」の初代となりました。また、那須与一の子孫である愚咄坊(ぐとつぼう)が開いたと伝える七か所の弘誓寺(ぐぜいじ:東近江市、彦根市)が存在します。東国武士の活躍を描いた名作が当館に所蔵されることとなったのも、彼らと近江の奇しき縁によるものかもしれません。

※「源平合戦図」は、令和3年(2021)2月6日から3月21日まで、県立安土城考古博物館で開催された、地域連携企画展「琵琶湖文化館の『博物誌』―浮城万華鏡の世界へ、ようこそ!―」に出展されました。

( 井上 優 )