安田老山(やすだろうざん・1830~1883)は、幕末から明治期にかけて活躍した文人画家です。美濃国(現岐阜県)の養老に生まれ、名を養、字を老山とし、字を号として用いました。別号には万里翁があります。はじめ長崎にて長崎南画三筆のひとり鉄翁祖門(てつおうそもん・1791~1872)に絵を学び、さらに中国・清に渡り、上海の文人画家・胡公寿(ここうじゅ・1823~1886)に師事しました。
本図には、根が浮き上がった奇怪な姿の松と太湖石(たいこせき)が描かれています。水墨の濃淡を用い、松の根や枝ぶりの複雑な前後関係を巧みに表現しています。松は長寿の象徴としてよく知られますが、冬になっても葉の青々しさを保つ様子から、苦境に立ち向かう不屈の精神を示す画題としても尊ばれています。
賛には、老山の居所と考えられる「水石草堂」において、本図が制作されたことが記されています。清から帰国した老山の周囲には、その腕前を耳にした同好の者が集い、老山を講師として絵を学ぶ「水石社」が結成されました。特に老山と親しかった巖谷一六は、この画会に足繁く通っていたことが知られています。
本図には、根が浮き上がった奇怪な姿の松と太湖石(たいこせき)が描かれています。水墨の濃淡を用い、松の根や枝ぶりの複雑な前後関係を巧みに表現しています。松は長寿の象徴としてよく知られますが、冬になっても葉の青々しさを保つ様子から、苦境に立ち向かう不屈の精神を示す画題としても尊ばれています。
賛には、老山の居所と考えられる「水石草堂」において、本図が制作されたことが記されています。清から帰国した老山の周囲には、その腕前を耳にした同好の者が集い、老山を講師として絵を学ぶ「水石社」が結成されました。特に老山と親しかった巖谷一六は、この画会に足繁く通っていたことが知られています。
( 萬年 香奈子 )
※「安田老山 書画」は、令和6年(2024)9月21日から11月24日まで、(公財)日本習字教育財団観峰館にて開催の「滋賀限定!近江ゆかりの書画-古写経から近代の書まで-」に出展しています。