大津市黒津の正法寺に伝来する木造帝釈天立像です。大津に伝来する仏像の中でも、特に平安時代後期の典雅な作風を色濃く備えた仏像として知られています。
理知的な印象を持った面相には、細く見開いた眼と、小振りな鼻梁・唇を表しており、額には第三眼が彫刻されています。頭部は螺髻という頭髪を巻き込んだ髻を結い、丹念に毛筋彫りを施しています。また、天冠台は紐の間に連珠を配し、その上に列弁と花稜形を重ねるもので、平等院鳳凰堂の雲中供養菩薩像など、当時の最先端のものと共通しています。右手に独鈷杵を持ち、左手を前方に差し出し、両足を揃えて蓮葉の上に立つ姿はバランスが良く、洗練された造形感覚がうかがえます。
また着衣では、がい襠衣の長袖先端を丸く表し、鰭袖を小さく表現することで、全体の印象をすっきりとまとめています。また、胸元に掛けられた房飾りや条帛、腰帯の結び目、衣のたぐれによる衣褶、脚間に表された蔽膝(へいしつ)、そして飾りをあしらった沓などといった装飾的な彫刻が全て正面に並んでいることから、正面観賞性の強い仏像ということができます。
帝釈天は、元々インドの古代神話に登場する神であり、その名をインドラと言います。天上世界の神であり、太陽神として、また雷雨を司る雷霆神として尊崇を集めました。仏教に取り入れられ、梵天と共に釈迦の護法神としての性格を与えられます。帝釈天の持つ独鈷杵(伐折羅)は、引き継がれてきた神としての性格である雷を象徴したものです。また、阿修羅との闘争を続けていることから、造像において衣の下に甲冑を着した姿で表されることもあります。
正法寺は現在臨済宗の寺院ですが、もとは天台宗の寺院でした。織田信長による焼き討ちを受けて荒廃し、小堂に仏像を安置するだけとなっていました。これを遺憾に思った膳所藩主・本多俊次が膳所に大円院を建立した際に、仏像を移し安置しました。その後、江戸時代中期に黒津の地に寺院が復興されたのを機に、再び仏像が移され、今日の正法寺となっています。 |
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