文化館の道を挟んで向かい側30mほどのところに、明治時代の政治家:井上敬之助を讃える銅像がありました。
井上は、元治2年(1865)甲賀郡石部村(現:湖南市石部)に生まれ、若くして政治家への道を志して自由党の傘下に入り、明治23年(1890)には、板垣退助が再興した愛国公党に参加しました。明治25年(1892)、27歳の時には県会議員に当選、以降5回当選という経歴を持ち、地方自治の健全強化に大きく貢献しました。
明治31年(1898)に自由党と進歩党が合流し憲政党が結成されると同党滋賀支部常議員に、更には憲政党が明治33年(1900)に立憲政友会(総裁伊藤博文)と改称した際には、政友会滋賀支部の結成に多大な尽力をしたとも言われています。そして、明治35年(1902)には衆議院議員に初当選、翌年も再選を果たすなど、政治家として大きな功績を残しています。
官僚政治の是正や民意の反映に努め全身全霊を政治に捧げたその姿から、滋賀県政の大御所として「其当時県に知事が二人いる」と言われたほどで、明治後期から昭和初期にかけての滋賀県の政治家を語る上で、忘れることのできない人物でもあります。
この銅像の建設にあたっては、滋賀県の初代民選知事であった服部岩吉が中心となって計画が進められ、彫刻家として有名な森 大造に制作を依頼、昭和37年に完成しました(建立者:井上敬之助顕彰会)。
制作当時、井上が亡くなってからすでに35年が経っており、一度も会ったことのない井上の像を作る命を受けた森は、かなり苦労をしたようで、「資料を集めてもらつた所写真が二三枚という貧弱さであつたが、翁の性格なり風貌なりは服部氏の説明や、当時各界の名士の感想文等を拝読して翁の偉大な広く重い人格を伺い知る事が出来た」と伝記『井上敬之助』の中で語っています(昭和37年4月発行)。森は、井上が生活していた石部町の自宅を訪ねて参考資料を見たり、当時でもあまり見かけなくなったこのマントのような「フロックコート」をわざわざ借りてきて制作にあたるなど、井上の持っていた個性の描写に力を注ぎました。
こうして出来上がった井上の銅像は、レトロな装いでありながら背筋をすっと伸ばして立つその姿が実に凛々しく、力強い眼差しからは、断固たる決意とその人柄をうかがい知ることが出来ます。
明治から昭和初期という社会情勢が目まぐるしく変わる激動の時代にあって、郷土滋賀のために尽力した井上。銅像の設置から約60年を経て、大津での勤めを果たし終え、本像は令和6年(2024)9月26日に、故郷の湖南市へ移設されました。