空也(くうや・903~972)は平安時代中期に活躍した僧侶で、早くに念仏を広め、その後の爆発的な阿弥陀信仰(浄土信仰)の基礎を築いた人物です。天皇の落胤という説もありますが、出自ははっきりしません。東北や四国を遊歴し、その間道を整備し、または打ち捨てられた遺体を火葬に付したりと、菩薩道の実践に尽くしたと伝えられます。また、いまだ仏教の受容者が貴族層中心であった時代に、市中を巡って庶民に念仏を勧めたため「市聖(いちのひじり)」と称されました。天暦5年(951)に都で流行した疫病を鎮めるため、十一面観音像を造立し一寺を建立しますが、これが現在著名な空也上人像を所蔵する京都・六波羅蜜寺の前身です。
荘厳寺像は、粗末な僧衣に身を包み、鹿杖(かせづえ)を突き、念仏を唱えながら胸の前の鉦鼓(しょうこ)を打つ姿にあらわされます。これは六波羅蜜寺像の形式に倣うもので、造像当初は六波羅蜜寺像と同様に口から六体の阿弥陀如来が現れる様を表現していました。現在荘厳寺像の口の中には折れた針金が残っていますが、これはその痕跡です。この阿弥陀如来は、空也の口から放たれた「南無阿弥陀仏」の六字が六体の阿弥陀如来となって出現した様子をあらわしています。撞木(しゅもく)を持つ手や、踏み出す足は力強く、おおらかにあらわされた衣の表現は迫力がありますが、浮き出した肋骨や衣文線にやや形式化が見られ、造立時期は14世紀に入ってからと考えられます。構造は体幹部を概ね一材から彫出し、面部、襟際、両肩から体側、両足を割矧(わりは)いでおり、割矧ぎを多用しています。
本像は現在近江八幡市安養寺町の荘厳寺の所蔵になりますが、もとは荘厳寺より少し南東に存在した安養寺(廃寺)の像と伝えられます。安養寺は明治時代までは塔や鐘楼など諸堂の礎石が残されていたようですが、現在その痕跡は認められません。ただ、昭和の発掘の際に白鳳時代の瓦が出土しており、非常に古い歴史を有する寺院であったことが想定されます。江戸時代の地志には、もとは安養浄土寺と称したと伝えられ、空也が信奉した浄土信仰に根差した寺院であったことをうかがわせます。
( 和澄 浩介 )
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