雨森芳洲は寛文8年(1668)近江国伊香郡雨森村(現 長浜市高月町)の医師・清納のもとに生まれました。はじめ医学を学びますが、17歳の時に江戸に出て木下順庵の門下となりました。木下順庵は幕府の儒官となった人物で、その門下からは「木門十哲」と呼ばれる10人の優れた弟子を輩出しています。雨森芳洲はその一人であり、ほかに新井白石、室鳩巣、祇園南海、榊原篁洲などがいます。新井白石は芳洲が順庵門下にあった頃の様子を「風神秀朗、才弁該博、先生称して更新の領袖(りょうしゅう)と為す」(停雲集)とし、博学で優れており、順庵門下の中心人物であったと伝えています。元禄2年(1689)、22歳の時に、芳洲は木下順庵の推薦で対馬藩に士官することになりました。対馬藩はわが国の朝鮮外交を担っており、李氏朝鮮が国学を朱子学としていることと、取り交わす文書が漢文であることから、儒者を必要としたのでした。その後22年間にわたり対朝鮮外交の最前線に立つことになりました。そして釜山に渡り並々ならぬ努力の末朝鮮語を習得、芳洲は外交上多くの功績を挙げましたが、享保6年(1721)職を辞任して以後、著作に力を注ぎました。
享保13年(1728)には22年間に及ぶ朝鮮外交の実務者としての経験をもとに、「交隣提醒」を著し対馬藩主に対朝鮮外交の心得を説き、また「治要管見」を著して、藩政に関して様々な内容を上申しています。特に外交に携わる人物の学問の必要性、通訳の必要性を説き、藩独自に人材を育成すべきであると訴えました。
81歳の時、芳洲は初めて和歌の道に志し、二つの目標を立てました。一つは「古今和歌集」を千回読む事であり、これは3年で達成しました。二つ目は1万首の和歌を詠むことでしたが、これも倍の2万首を達成しています。文化館が所蔵する書は芳洲が85歳の時に書いたものです。高齢にしては、筆がよどみなく運ばれており、老齢さからくる線の揺れもほとんど見られません。宝暦5年(1755)に88歳で没するまで心身ともに充実していた様子がうかがわれますが、これを支えたのは常に学ぶことを忘れないという、その姿勢でありました。
享保13年(1728)には22年間に及ぶ朝鮮外交の実務者としての経験をもとに、「交隣提醒」を著し対馬藩主に対朝鮮外交の心得を説き、また「治要管見」を著して、藩政に関して様々な内容を上申しています。特に外交に携わる人物の学問の必要性、通訳の必要性を説き、藩独自に人材を育成すべきであると訴えました。
81歳の時、芳洲は初めて和歌の道に志し、二つの目標を立てました。一つは「古今和歌集」を千回読む事であり、これは3年で達成しました。二つ目は1万首の和歌を詠むことでしたが、これも倍の2万首を達成しています。文化館が所蔵する書は芳洲が85歳の時に書いたものです。高齢にしては、筆がよどみなく運ばれており、老齢さからくる線の揺れもほとんど見られません。宝暦5年(1755)に88歳で没するまで心身ともに充実していた様子がうかがわれますが、これを支えたのは常に学ぶことを忘れないという、その姿勢でありました。