小杉放庵は、明治14年(1881)に栃木県の日光二荒山神社の神官の子として生まれました。本名は国太郎。15歳のとき絵を志し、油彩、水彩を学び洋画家として活躍しましたが、西洋の巨匠たちには遠く及ばないと悟り、大正12年(1923)、雅号をそれまでの「未醒」から「放庵」へと改め、次第に日本画へと移行していきました。特に墨の濃淡に関心を抱くようになり、この墨の濃淡を思いのままに表現するため、放庵は全国の紙漉(かみすき)産地に和紙を求めました。
特に小杉放庵が親密な付き合いをした紙漉職人に越前今立の岩野平三郎(2代目)がいます。岩野平三郎は昭和の大礼に際し、悠紀屏風用の料紙や、早稲田大学講堂の横山大観、下村観山共作の「明暗」に使用された方三間の画紙を漉くなど、紙漉職人として日本史上に名を残した人物です。この岩野平三郎のもとに放庵からおびただしい数の書簡が届いたようで、現在残っているだけでも100通を超えます。その大部分は、自分が望む和紙を漉いて貰うための事細かな注文であり、放庵が麻紙に試筆した際には「此紙は実によろしい紙です、私の水墨の仕事には非常によく合ひます」との感想を手紙にしたためています。放庵は自身の好む筆の運びやかすれ具合を求めて試筆に試筆を重ね、平三郎は放庵の希望に応えてさまざまな麻紙を作り続けました。そしてようやく放庵の好む麻紙が完成し、「放庵紙」と名付けられたこの紙に放庵は作品を描き続けました。
本作品は小杉放庵の書であり、「ひとつ雲 あさの空ゆく ゆくらゆくら ひとつ山越え ふたつやまこえ」という短歌が記されています。料紙はもちろん放庵紙を用いており、放庵から平三郎へ贈られたものです。
特に小杉放庵が親密な付き合いをした紙漉職人に越前今立の岩野平三郎(2代目)がいます。岩野平三郎は昭和の大礼に際し、悠紀屏風用の料紙や、早稲田大学講堂の横山大観、下村観山共作の「明暗」に使用された方三間の画紙を漉くなど、紙漉職人として日本史上に名を残した人物です。この岩野平三郎のもとに放庵からおびただしい数の書簡が届いたようで、現在残っているだけでも100通を超えます。その大部分は、自分が望む和紙を漉いて貰うための事細かな注文であり、放庵が麻紙に試筆した際には「此紙は実によろしい紙です、私の水墨の仕事には非常によく合ひます」との感想を手紙にしたためています。放庵は自身の好む筆の運びやかすれ具合を求めて試筆に試筆を重ね、平三郎は放庵の希望に応えてさまざまな麻紙を作り続けました。そしてようやく放庵の好む麻紙が完成し、「放庵紙」と名付けられたこの紙に放庵は作品を描き続けました。
本作品は小杉放庵の書であり、「ひとつ雲 あさの空ゆく ゆくらゆくら ひとつ山越え ふたつやまこえ」という短歌が記されています。料紙はもちろん放庵紙を用いており、放庵から平三郎へ贈られたものです。