幕末に活躍した近江の人物と言えば、彦根藩主・井伊直弼が最も有名な一人ではないでしょうか。この直弼と親しい存在であった公家に、三条家があります。幕末の三条実万(さねつむ)・実美の父子は、国事に奔走したことでも知られています。しかし、良好だった直弼との関係も、直弼らが天皇の勅許をうけないまま日米修好通商条約を締結したことや、将軍の継嗣問題などで一変します。そのやり方に反発した尊皇攘夷派の多くの公家らが処分を受ける中、三条実万も尊皇攘夷の一人として謹慎処分を受けたのでした。
三条実美は、実万の第4子として天保8年(1837)に生まれ、三条家を継いだのち父と同じく尊皇攘夷派の公家として中心的存在となりました。その対局的存在だったのが岩倉具視(いわくらともみ)です。具視は天皇の妹である和宮の将軍家への降嫁問題に積極的であり、公武合体派の中心人物でありました。尊皇攘夷派、公武合体派、それぞれが時期によって動きを活発化させる中で、具視と実美はお互いが追放し、追放される関係でもありました。
この資料は、三条実美から岩倉具視にあてた書簡です。対極にあった二人が接近したのは、慶応3年(1867)王政復古の大号令が出た際、そろって議定に任じられたことによります。本状は具体的に細かく記されるものの、どのような状況下における書簡なのか、その背景を明らかにするのは容易ではありません。書簡は、差出人と宛先人の両者間で用件が認識されていればその内容について事細かに記す必要はないため、第三者が読むと意外に理解出来ないことがあります。この書状は明治新政府の要人である両者の書簡であるため、万が一誰かに見られた場合などを考えて用件について明記することがはばかられるようなこともあったのでしょう。
なお、明治4年(1871)三条実美は太政大臣に任じられ、歴史上最後の太政大臣となりました。