文化館が一般公開していたころ、2階に設けられた入り口に足を踏み入れてやや上を見上げると、1枚の額が来館者を出迎えていました。それがこの額です。この額は、秋月種樹(あきづきたねたつ)という幕末から明治期に活躍した人物の書です。
秋月種樹は、天保4年(1833)、日向国(現 宮崎県)高鍋藩主・秋月種任の三男として生まれました。種樹は、安井息軒(そつけん)に儒学や漢学を学んで頭角をあらわし、文久2年(1862)、幕府が設置した学問所の初代奉行となりました。
この額には、「正三位秋月種樹書」と署名があり、その左脇には落款が二つあります。上は「秋月種樹」、下は「古香」と読むことが出来ますが、古香は種樹の雅号です。上の落款では「月」の部分が象形文字で表されておりなかなか面白いです。中央の文字は右から左に「開物成務」と書かれており、「物を開き、務めを為す」と読みます。これは「易経」という中国の古い書物に見られる言葉で、もともとは「人をして卜筮によって吉凶を知り、それによって事業を成さしめること」(「大漢和辞典」)という意味だったようですが、「人々の知識を開き、世の中の事業を達成させる」(「新字源」)といった意味で使われるようになりました。
この額の大きさは、およそ1m、横3mと巨大で、1枚板が使用されています。昭和23年(1948)に開館した滋賀県立産業文化館(旧武徳殿)の入り口にも掛けられており、以来およそ60年にわたり、滋賀の文化財に親しむ多くの人々を見守ってきました。
秋月種樹は、天保4年(1833)、日向国(現 宮崎県)高鍋藩主・秋月種任の三男として生まれました。種樹は、安井息軒(そつけん)に儒学や漢学を学んで頭角をあらわし、文久2年(1862)、幕府が設置した学問所の初代奉行となりました。
この額には、「正三位秋月種樹書」と署名があり、その左脇には落款が二つあります。上は「秋月種樹」、下は「古香」と読むことが出来ますが、古香は種樹の雅号です。上の落款では「月」の部分が象形文字で表されておりなかなか面白いです。中央の文字は右から左に「開物成務」と書かれており、「物を開き、務めを為す」と読みます。これは「易経」という中国の古い書物に見られる言葉で、もともとは「人をして卜筮によって吉凶を知り、それによって事業を成さしめること」(「大漢和辞典」)という意味だったようですが、「人々の知識を開き、世の中の事業を達成させる」(「新字源」)といった意味で使われるようになりました。
この額の大きさは、およそ1m、横3mと巨大で、1枚板が使用されています。昭和23年(1948)に開館した滋賀県立産業文化館(旧武徳殿)の入り口にも掛けられており、以来およそ60年にわたり、滋賀の文化財に親しむ多くの人々を見守ってきました。