本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、美濃国(現 岐阜県)出身であるというのが通説でした。ところが近年、近江国犬上郡佐目(現 滋賀県犬上郡多賀町佐目)の生まれであるという説が掘り起こされ、注目を集めています。この「光秀近江出身説」を早くに記していたのが、『淡海温故録(おうみおんころく)』という書物です。
『淡海温故録』は、江戸時代前期の貞享年間(1684~88)にまとめられた近江国の地誌です。著者は、内容のよく似た地誌『江侍聞伝録(ごうじもんでんろく)』(寛文12年(1672)成立)と同じ、木村源四郎重要という人物だと考えられます。『淡海温故録』は、近江国内の郡別・村別に項目を立てて地誌としての体裁をとりながら、内容は主として中世の土豪・地頭の家系に関することを記しているのが特色です。とりわけ、近江守護六角氏と関係の深い武将についての記述は詳しく、信頼性の高いものであると評価されています。
『淡海温故録』にはいくつかの写本が知られていますが、本館所蔵のものは全部で8冊からなり、袋綴じ冊子本の姿です。上質の和紙(紙質は楮紙)に精美な書体で墨書され、幕末期書写の善本といえるものです。
巻3乾(第5冊)の犬上郡左目(佐目)の項目に、明智光秀の出身伝説が書かれています。光秀の先祖である「明智十左衛門」が、元の主君であった土岐成頼に背いて美濃国を離れ、六角高頼に保護されて佐目に住んだというのです。それから2~3代の間佐目で暮らし、孫か曾孫の代になって明智十兵衛光秀が生まれた旨を記します。
その後、器量優れた光秀が越前朝倉家へ出仕しようと村を出たところ、「川流れの大黒天」を拾って千人の長となる幸運をつかみますが、千人の長では満足できない光秀は再び大黒天を川に流し、朝倉家を辞して織田信長に仕官し、その後大出世を遂げていくという、珍しい物語が伝えられます。
また、本能寺の変後の山崎合戦に際して、多賀に本拠をおく多賀新左衛門や久徳六左衛門ら東近江衆が光秀方に味方した事情についても、彼らが近江出身の光秀と旧知の「旧き好身(よしみ)」の関係であったからだと示唆するなど、興味尽きない内容です。
『淡海温故録』に記された事柄は、のちに『近江輿地志略(おうみよちしりゃく)』(享保19年(1734)成立)や『淡海木間攫(おうみこまざらえ)』(寛政4年(1792)成立)といった、代表的な近江の地誌にも受け継がれ、江戸時代にはかなり広く知られていたと考えられます。
※当館発行の研究紀要第35号: 「淡海温故録」の明智光秀出生地異伝と現地伝承について に、詳しく紹介しています。
※『淡海温故録』は、令和2年(2020)10月10日(土)から11月23日(月・祝)の間、滋賀県立安土城考古博物館で開催された「信長と光秀の時代‐戦国近江から天下統一へ‐」に出展されました。
( 井上 優 )