彩箋墨書 掛幅装 寂室元光墨蹟「越谿」道号並びに説 2幅 |
重要文化財 南北朝時代 (貞治5年) |
(さいせんぼくしょ かけふくそう じゃくしつげんこうぼくせき 「えっけい」 どうごうならびにせつ) 東近江市 退蔵寺蔵 |
法量 (道号)本紙 縦 35.0 × 横 81.8 cm (説) 本紙 縦 35.5 × 横 82.0 cm |
臨済宗永源寺派の祖師である、寂室元光(1290~1367)が書いた書。1幅は「越谿(えっけい)」の二文字を大きく横書きの楷書であらわしたもので、愛弟子である越谿秀格(えっけいしゅうかく:生年不明~1413)に与えた道号が書かれています。出家得度のとき、僧侶が師から与えられる名を法号(法諱、戒名)といい、ここでは「秀格」がそれに当たります。臨済宗の場合、修行が進んで一定の法階に達した僧に対して、恩師から法号の上にさらに授与される号を「道号」と呼びます。道号と法号を合わせて四字連称(たとえば一休宗純)といい、それが正式な禅僧の呼び名となります。 もう1幅は「越谿号説」と題して22行におよび、寂室が弟子・秀格に道号を与えた経緯、道号に込められた師の思いと期待について書かれています。内容は、秀格が若いころから寂室に参禅して早や12年、わが身を忘れるほどに苦労して修業に専念してきたと称えます。また、このたび求めに応じて「越谿」の道号を与えるが、これは中国越州の若耶渓(じゃくやけい)にちなんだもので、賢者や才人、詩僧や文人らがこぞって訪れた景勝地にあやかったものだと説明します。中国文人憧れの地である天下の若耶渓、その水かさが増すように、弟子・秀格の禅の境地が奥深いところへ到達することを期待すると述べて、文章を結んでいます。表面的には書かれていませんが、越谿の道号は若耶渓に因むとともに、永源寺の傍を流れる渓流・愛知川(越智川、越渓)とも掛け合わせられているのではないでしょうか。 越谿号を授けられた秀格は、その名に恥じること無くさらに精進を重ね、のちに寂室の法流を嗣いで永源寺第五世となり、さらに退蔵寺(東近江市青野町)を開いています。 2幅ともに、浅葱色(あさぎいろ:薄い藍色)に染められた、「蠟牋(ろうせん)」と呼ばれる中国からの輸入紙を用いています。「蠟牋」は文様を彫り出した版木の上に紙を置いて蠟を塗り、イノシシの牙などを用いて擦り磨くことで文様を浮かび上がらせるもので、趣味的でハイセンスな舶来品でした。表されたデザインは、中央に藻を食む二匹の草魚(ソウギョ:中国原産の淡水魚)があらわされ、四周には鳳凰文の縁取りが施されています。爽やかな水色の中に生き生きとした魚の姿があらわされ、いかにも清流の景を思わせる料紙です。その料紙の上に、寂室らしい整った骨太の楷書で「越谿」の二文字が大書され、まさにイメージぴったりの仕上がりに感服させられます。書と料紙の、総合的な傑作です。 |
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なお、越谿秀格は美濃国守護の土岐頼遠(ときよりとお:生年不明~1342)の遺児といわれています。頼遠は足利尊氏に従って転戦し、各地で武功をあげた名将でしたが、酒に酔った勢いで光厳上皇の牛車を蹴倒す(矢を射たともいう)という狼藉を働き、京都六条河原で斬首されました。幼くして父を失った秀格を侍童として引き取り、常に傍らで見守ったのが師の寂室元光だったのです。鎌倉末期から南北朝期にかけての混乱の時代に起きた悲劇を乗り越え、結ばれた深い師弟愛を知ることができる資料としても貴重なものです。
( 井上 優 ) ※「寂室元光墨蹟「越谿」道号並びに説」は、令和6年(2024)9月21日から11月24日まで、(公財)日本習字教育財団観峰館にて開催の「滋賀限定!近江ゆかりの書画-古写経から近代の書まで-」に出展しました。 |