絖本(こうほん)、すなわち光沢のある絹地に、渋沢栄一が漢詩文を墨書したもの。七言絶句形式の自作詩を、二行に分けて書いています。「青淵(せいえん)」は渋沢の号です。中国の古典をしっかりと学んだ見事な書風で、筆鋒するどく緊張感をもって表現され、見る者に清澄な印象を与える佳作です。
渋沢栄一(1840~1931)は経済人で、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)や理化学研究所、東京証券取引所などを設立して「日本資本主義の父」と称される人物です。一方で、幕末維新期には志士や官僚として活躍、実業家として成功してからも寄付活動や慈善事業に尽力するなど、仁義道徳と経済の合一を信念として生きた人物でした。
館蔵の書跡には「丁巳三月」こと大正6年(1917)3月に、常盤花壇の主婦に嘱されて書いたという為(ため)書きがあります。『渋沢栄一伝記資料』によれば、1917年3月14日、渋沢は東京を発し、第一次世界大戦における連合国傷病兵・罹災者慰問会の寄付金を募集するため、また自らの第一銀行頭取辞任を披露するため、関西へと向かいました。そして当日、神戸にあった料亭「常盤花壇」で宿泊しています。本品はそのとき、料亭の女将らに依頼されて揮毫したものと考えて間違いないでしょう。
見事に書かれた渋沢自作の七言絶句は、詩作を得意とした彼にとっても、お気に入りの作品のひとつであったといえます。同作は明治42年にたまたま作ったと『青淵詩存』に見え、それ以後何点かの揮毫が遺されています。
春花落尽勿秋霜 一瞬朝暉変夕陽 休説世間人事劇 観来造物亦多忙
(大意)春の花が落ちれば、たちまち秋の霜が置く。一瞬の朝日も、たちまち夕陽に
変わってしまう。人間社会の出来事がはげしく目まぐるしいというのはやめて
ほしい。よく観てみれば、自然の事物も忙しく移り変わっているではないか。
明治維新のあと、目まぐるしく近代化の歴史を辿った日本。人間社会の急速な変化に付いて行けない思いの人も多くありました。それでも渋沢は、自然界でも事物の移り変わりは激しいのだから、驚くには及ばないと考えます。近代化や世の革新を肯定する思想でしょう。
滋賀県と渋沢の関係を見てみましょう。1910年に石山寺、唐崎神社、三井寺に参詣。1913年には比叡山延暦寺で行われた慈覚大師千五十年忌法会に参列するなど、近江の名だたる社寺との縁があったようです。
さらに、渋沢は儒学のなかで特に陽明学に共鳴しており、日本陽明学の祖である中江藤樹の事績を顕彰することにも熱心でした。大正10年(1921)1月20日、渋沢は藤樹神社創立協賛会顧問となることを承諾し、金千円を寄付するとともに、さらなる寄付金の募集を財界の知人らに向けて呼び掛けています。同会の顧問は終生続け、1922年5月21日に創立された藤樹神社には、今なお渋沢の自筆の扁額が伝えられています。
2024年7月に新紙幣1万円札の顔ともなった渋沢栄一。この機会に、彼の人物像に迫ることのできる琵琶湖文化館所蔵の書跡や、高島市安曇川町の藤樹神社などにも注目してみてはいかがでしょうか。
( 井上 優 )
※「春花落尽」七言絶句は、令和6年(2024)9月21日から11月24日まで、(公財)日本習字教育財団観峰館にて開催の「滋賀限定!近江ゆかりの書画-古写経から近代の書まで-」に出展しています。