大久保利通(1830~1878)は薩摩藩(鹿児島県)出身の政治家で、同郷の西郷隆盛(1828~1877)とともに明治維新を成し遂げた維新三傑の一人に数えられます(もう一人は木戸孝允)。
本書は、ダイナミックな筆跡で、「通州(つうしゅう)を下って作る」と題した自作の七言絶句を書いた四行書です。大久保は明治7年(1874)、台湾出兵の戦後処理のため勅令により全権弁理大使として北京に向かい、講和を成立させて帰国。その旅の途中、通州(現北京市通州区)で詠んだ詩です。
「甲東(こうとう)」は大久保の号で、書作にあたってはその号を用いることが多かったようです。大久保の書は盟友でライバルでもあった西郷の書に似た力強さも持ちながら、俗塵を脱して禅味を帯びた書だと評されることがあります。
また、書線に痩肥(そうひ)をつけるなど技巧的な側面がありますが、新政府において日下部鳴鶴(くさかべめいかく・1838~1922)を書記官として信任していたことから、個人的にも日下部の書から学ぶことが多かったと考えられます。
他方で、詩文の内容は単刀直入であり形容や虚飾を排したともいわれ、本品の詩作にもそうした特徴が現れています。一般に、大久保は繊細で冷徹なイメージを持たれていますが、幕末維新の国家的危機を政府の主導者として果断と剛腕により切り抜けた側面もあり、大久保の書からは、かかる彼の繊細さと大胆さが同時に現れ、人物像が見事に浮かび上がってくるかのようです。
本書は、ダイナミックな筆跡で、「通州(つうしゅう)を下って作る」と題した自作の七言絶句を書いた四行書です。大久保は明治7年(1874)、台湾出兵の戦後処理のため勅令により全権弁理大使として北京に向かい、講和を成立させて帰国。その旅の途中、通州(現北京市通州区)で詠んだ詩です。
「甲東(こうとう)」は大久保の号で、書作にあたってはその号を用いることが多かったようです。大久保の書は盟友でライバルでもあった西郷の書に似た力強さも持ちながら、俗塵を脱して禅味を帯びた書だと評されることがあります。
また、書線に痩肥(そうひ)をつけるなど技巧的な側面がありますが、新政府において日下部鳴鶴(くさかべめいかく・1838~1922)を書記官として信任していたことから、個人的にも日下部の書から学ぶことが多かったと考えられます。
他方で、詩文の内容は単刀直入であり形容や虚飾を排したともいわれ、本品の詩作にもそうした特徴が現れています。一般に、大久保は繊細で冷徹なイメージを持たれていますが、幕末維新の国家的危機を政府の主導者として果断と剛腕により切り抜けた側面もあり、大久保の書からは、かかる彼の繊細さと大胆さが同時に現れ、人物像が見事に浮かび上がってくるかのようです。
( 井上 優 )
※「大久保利通 書跡」は、令和6年(2024)9月21日から11月24日まで、(公財)日本習字教育財団観峰館にて開催の「滋賀限定!近江ゆかりの書画-古写経から近代の書まで-」に出展しています。