
紙本墨書〔法量 本紙 / 縦 30.9 × 横 50.8 cm〕

「豊臣兄弟」の兄・秀吉が明国との交渉不和により朝鮮半島へと出兵してからおよそ50年後、中国では明から清へと時代が移り変わろうとしていました。明・永暦11年(1657)、黄檗僧(おうばくそう)として長崎にたどり着いたのが、この偈(げ)を書いた即非如一(そくひ にょいつ・1616~1671)です。
当時の長崎は、大陸より多くの唐人が交易目的で訪れる中で黄檗禅が伝播し、唐人が滞在し生活をした同地において複数の黄檗寺院が建立されます。その後、日中貿易が盛んとなり益々の商人の滞在が進むようになると、彼らの「拠り所」となる場所が求められるようになり、同時に黄檗禅に通じた高僧が求められるようになりました。その第一人者こそ、日本に黄檗宗を開創した隠元隆琦(いんげん りゅうき)でした。隠元は高齢で来日したため、その事跡を継ぐべく、黄檗二世の木庵性瑫(もくあん しょうとう)や即非が日本の地に足を下ろしました。
ただし、即非は隠元や木庵とは異なり、長崎や小倉といった北九州方面を地盤として活躍し、特に小倉藩主・小笠原忠真の厚い帰依を受けました。従って、京都や滋賀には即非の足跡を記す資料は稀少で、当館所蔵の墨蹟もまた貴重な作品といえます。
偈の内容は、「孝、道を致すの先とするは孰(いずれ)れかよくせん、此において両た兼ねて時中に護念すること是の如し。諸仏の慧命全うすべし。」とあります。孝を積むことは、学問を修め自らの道を決めることより先とすることを誰ができるだろうか(まず、道を決め、その後、孝を積むべきである)、今に至っては、仏が常に人びとを守り念じていることは言うまでもない。諸仏の慧命、すなわち(子弟たちは)僧としての職務を全うすべきである、という内容で、後進へ迷わずに進むべき道を悟らせようとしています。
なお、「致道」や「時中」は儒教を典拠とする用語で、儒教世界にある仏教という江戸時代の宗教世界を反映した内容となっている点にも注目してください。
その書は、師の隠元の書風に影響を受けつつも、力強い筆線の中に見える厳格さを持ち合わせた書きぶりです。「黄檗三筆」の中でも、特に即非の書が好まれるのは、書から伝わる教授性と説得力に拠るからかもしれません。
( 寺前 公基 )








