今回ご紹介するのは、銛(モリ)という漁具です。 長さ22cmのこの銛頭は、側面から見ると緩やかな反りが見られ、鹿の角を利用して作られたものであることがわかります。中央より先の方にかけて左右に互い違い4本ずつのアグ(カエシ)が作り出され、表面は全体によく磨かれ非常に美しく仕上げられています。
銛は、アグを付けない場合が多い小型のヤスと同じく、魚を突き刺して捕る道具で、日本列島では縄文時代から使われています。骨角器の銛頭には、離頭式と固定式の2種がありますが、米原市磯出土の銛は、根元に三角形の突出部を作り出しており、この部分を柄に差し込んで、樹皮を巻きつけて固定したものと考えられます。
米原市磯地区は、かつては琵琶湖の周囲にいくつもあった内湖の一つ、入江内湖の沿岸に位置します。内湖が「あった」というのは、戦中戦後の食糧難の時代に、内湖の干拓事業が進められ、今は多くが陸地化され農地となっているからです。330haもの面積があった入江内湖も、昭和19年から24年にかけて干拓が進められましたが、内湖の水をポンプで抜いていった時に、湖底から縄文時代から平安時代にかけての土器や石器、木器などが見つかり、遺跡の広がっていることが確認されました。 この時に、地元の方が丹念に拾い集められた土器などの資料の多くが、今でも琵琶湖干拓資料館(米原市入江)に保管されています。琵琶湖文化館が所蔵するこの銛も同じ頃に採集され、後に寄贈を受けたものです。
さて、この銛はいつ頃使われたものなのでしょうか。残念ながら、内湖の底から採集されたものであるため、出土状況から時期を窺うことができません。一般的に、釣針やヤス、銛などは、弥生時代後期以降、鉄製へと変わっていくので、骨角製の漁具を使っていたのは縄文時代以降、遅くとも弥生時代中期までだと言えます。さらに、この銛は、愛知県朝日遺跡、滋賀県大中の湖南遺跡といった弥生時代前期~中期の遺跡から出土したものと形態がよく似ているので、その頃のものと考えてよいでしょう。
琵琶湖での漁労活動の開始は縄文時代早期に遡り、釣針をはじめとした骨角製の漁具、網に付けた石や土器片の錘などが、琵琶湖周辺の遺跡から見つかっています。入江内湖遺跡で近年に行われた発掘調査でも、縄文時代前期~後期の骨製釣針やヤス、そして丸木舟などが出土しています。縄文時代の長い間、人々はこのような漁具や舟を用いて、コイやフナ、ギギといった琵琶湖の幸を手に入れていたようです。しかし、縄文時代の終わり頃に朝鮮半島から米作りが伝わると、琵琶湖の周辺の低湿地でも水田が作られ、人々の食生活は米を主食としたものに変わっていきます。ただ、米ばかりではタンパク質が不足するので、おかずとして肉や魚も必要です。そこで弥生時代には、農作業の合間に、内湖や川に作ったエリやヤナ、水路に仕掛けた筌などで魚を待ち受けて捕るといった漁法が流行していきます。
このように琵琶湖の漁法が大きく転換するなか、銛やヤスで魚を突き刺して捕るといった縄文時代から続く攻撃的な漁法は、主流からはずれていきました。しかも、磯出土のこの銛は、本来、外洋で大型の魚を捕るのに適したもので、琵琶湖の淡水魚を捕るにはいささか大きすぎ、実用的ではありません。それでは、弥生時代におけるこのような銛の存在について、どのように理解すれば良いのでしょうか。
残念ながら、これ以上のことはまだはっきりとわかっていません。ただここでひとつ、のちの前方後円墳の時代における古墳の副葬品を参考にしてみたいと思います。古墳時代には、鉄製となった銛やヤスなどの漁具が、雪野山古墳(滋賀県近江八幡市・東近江市・蒲生郡竜王町)をはじめ、椿井大塚山古墳(京都府木津川市)や紫金山古墳(大阪府茨木市)など、琵琶湖・淀川水系の代表的な首長墓に副葬品として埋納されます。このことを、漁具という道具の行く先の一つと見て、磯出土のこの大きく美しい骨製銛に、魚を捕る道具という以上の、何か新たな意味が加わりはじめたと考えるのは、想像を逞しくしすぎでしょうか。
※「米原市磯出土骨製銛」は、令和3年(2021)2月6日から3月21日まで、県立安土城考古博物館で開催された、地域連携企画展「琵琶湖文化館の『博物誌』―浮城万華鏡の世界へ、ようこそ!―」に出展されました。
銛は、アグを付けない場合が多い小型のヤスと同じく、魚を突き刺して捕る道具で、日本列島では縄文時代から使われています。骨角器の銛頭には、離頭式と固定式の2種がありますが、米原市磯出土の銛は、根元に三角形の突出部を作り出しており、この部分を柄に差し込んで、樹皮を巻きつけて固定したものと考えられます。
米原市磯地区は、かつては琵琶湖の周囲にいくつもあった内湖の一つ、入江内湖の沿岸に位置します。内湖が「あった」というのは、戦中戦後の食糧難の時代に、内湖の干拓事業が進められ、今は多くが陸地化され農地となっているからです。330haもの面積があった入江内湖も、昭和19年から24年にかけて干拓が進められましたが、内湖の水をポンプで抜いていった時に、湖底から縄文時代から平安時代にかけての土器や石器、木器などが見つかり、遺跡の広がっていることが確認されました。 この時に、地元の方が丹念に拾い集められた土器などの資料の多くが、今でも琵琶湖干拓資料館(米原市入江)に保管されています。琵琶湖文化館が所蔵するこの銛も同じ頃に採集され、後に寄贈を受けたものです。
さて、この銛はいつ頃使われたものなのでしょうか。残念ながら、内湖の底から採集されたものであるため、出土状況から時期を窺うことができません。一般的に、釣針やヤス、銛などは、弥生時代後期以降、鉄製へと変わっていくので、骨角製の漁具を使っていたのは縄文時代以降、遅くとも弥生時代中期までだと言えます。さらに、この銛は、愛知県朝日遺跡、滋賀県大中の湖南遺跡といった弥生時代前期~中期の遺跡から出土したものと形態がよく似ているので、その頃のものと考えてよいでしょう。
琵琶湖での漁労活動の開始は縄文時代早期に遡り、釣針をはじめとした骨角製の漁具、網に付けた石や土器片の錘などが、琵琶湖周辺の遺跡から見つかっています。入江内湖遺跡で近年に行われた発掘調査でも、縄文時代前期~後期の骨製釣針やヤス、そして丸木舟などが出土しています。縄文時代の長い間、人々はこのような漁具や舟を用いて、コイやフナ、ギギといった琵琶湖の幸を手に入れていたようです。しかし、縄文時代の終わり頃に朝鮮半島から米作りが伝わると、琵琶湖の周辺の低湿地でも水田が作られ、人々の食生活は米を主食としたものに変わっていきます。ただ、米ばかりではタンパク質が不足するので、おかずとして肉や魚も必要です。そこで弥生時代には、農作業の合間に、内湖や川に作ったエリやヤナ、水路に仕掛けた筌などで魚を待ち受けて捕るといった漁法が流行していきます。
このように琵琶湖の漁法が大きく転換するなか、銛やヤスで魚を突き刺して捕るといった縄文時代から続く攻撃的な漁法は、主流からはずれていきました。しかも、磯出土のこの銛は、本来、外洋で大型の魚を捕るのに適したもので、琵琶湖の淡水魚を捕るにはいささか大きすぎ、実用的ではありません。それでは、弥生時代におけるこのような銛の存在について、どのように理解すれば良いのでしょうか。
残念ながら、これ以上のことはまだはっきりとわかっていません。ただここでひとつ、のちの前方後円墳の時代における古墳の副葬品を参考にしてみたいと思います。古墳時代には、鉄製となった銛やヤスなどの漁具が、雪野山古墳(滋賀県近江八幡市・東近江市・蒲生郡竜王町)をはじめ、椿井大塚山古墳(京都府木津川市)や紫金山古墳(大阪府茨木市)など、琵琶湖・淀川水系の代表的な首長墓に副葬品として埋納されます。このことを、漁具という道具の行く先の一つと見て、磯出土のこの大きく美しい骨製銛に、魚を捕る道具という以上の、何か新たな意味が加わりはじめたと考えるのは、想像を逞しくしすぎでしょうか。
※「米原市磯出土骨製銛」は、令和3年(2021)2月6日から3月21日まで、県立安土城考古博物館で開催された、地域連携企画展「琵琶湖文化館の『博物誌』―浮城万華鏡の世界へ、ようこそ!―」に出展されました。