4月23日は、語呂合わせで「シジミの日」だということです。シジミと言えば、琵琶湖では固有種のセタシジミがおなじみです。江戸時代の『近江輿地志略』(寒川辰清編纂)には、勢多橋のたもとの茶店で旅人に蜆煮を売っていたことが記されており、当時すでに名物であったことが知られます。ただ、セタシジミを食用にし始めたのはさらに古く、縄文時代にまで遡ります。そこで今回は、琵琶湖文化館収蔵品の中から、縄文時代の石山貝塚から出土したセタシジミをご紹介します。
まず、貝塚とは、縄文時代の人々の食べカスである貝殻や、獣骨、木の実の殻などが積み重なってできた、いわばゴミの山のことです。瀬田川の西岸、石山寺門前付近にある石山貝塚には、東西約20m、南北約50mにわたって、厚さ最大2.0mの貝層が広がっており、近接する粟津湖底遺跡と並んで日本最大級の淡水貝塚と言われています。石山貝塚で多数出土したセタシジミは、大きさが2~3cmもあり、現在普通に見られるセタシジミ(1~1.5cm程度)よりかなり大きいものです。粟津湖底遺跡の貝塚から出土したセタシジミも同様です。縄文時代の貝塚から出土するセタシジミは皆このように大きいのです。
石山貝塚の存在は戦前から知られていましたが、昭和24年8月の西田弘氏(当時は大津市立打出中学校教官)による調査を皮切りに、本格的な発掘調査が始まります。特に、昭和25~29年にかけて坪井清足氏(のちの奈良国立文化財研究所所長)の指導により行われた、平安学園考古学クラブによる発掘調査では、貝塚の詳しい様子がわかる大きな成果が得られました。この調査には、近隣の高校生・大学生に加えて、大津市立打出中学校の生徒さんたちも夏休みを利用して参加しました。
発掘調査の結果、石山貝塚が形成されたのは、縄文時代早期後葉から末頃(今から約7,000年前)であることがわかりました。特に、貝塚の始まりから最盛期にかけての土器は、南関東から東海地方にかけて広がる条痕文土器の系統に属するものでした。三浦半島など南関東の海岸部では、早い時期から漁労を取り入れた生活が始まっており、こういった生活文化が土器と共にこのころ琵琶湖岸へ及んできたと考えられます。
石山貝塚の調査では、土器や石器以外に、貝殻や獣骨などの動物遺体を分析して周辺の環境復元を行うといった、当時としては画期的な研究も進められました。その結果、遺跡の周辺には、水域と陸域の境目にあたる推移帯(エコトーン)の広がっていた様子が復元されています。推移帯というのは生物にとって重要な場所であり、生息する生物の種類も個体数も共に多いことが知られています。縄文時代の琵琶湖南部〜瀬田川沿いは、セタシジミの生息に特に適した環境だったようで、粟津湖底遺跡のセタシジミを分析したところ、個体の成長が今より速かったことがわかっています。おそらくその結果、大きなセタシジミがたくさん生息することになったのでしょう。石山貝塚からは、貝類以外にも、シカやイノシシ、キジ、コイ、フナ、イシガメ、スッポンといった様々な動物遺体が出土しており、多様な生物(=食料)に恵まれた環境であったことがわかります。
同じころ、琵琶湖の周りでは、米原市磯山城遺跡、近江八幡市弁天島遺跡、守山市赤野井湾遺跡などに、人々の住み着いた様子が知られています。これらの遺跡に貝塚は残されていませんが、おそらく、石山貝塚の大きなセタシジミが象徴するような、琵琶湖沿岸に広がる推移帯の豊かな生物資源が、この地に人々を呼び寄せたのでしょう。こうして琵琶湖のほとりに人が定住することになり、以後現在まで続く、琵琶湖と人の切っても切れない関係が始まることになったのです。
まず、貝塚とは、縄文時代の人々の食べカスである貝殻や、獣骨、木の実の殻などが積み重なってできた、いわばゴミの山のことです。瀬田川の西岸、石山寺門前付近にある石山貝塚には、東西約20m、南北約50mにわたって、厚さ最大2.0mの貝層が広がっており、近接する粟津湖底遺跡と並んで日本最大級の淡水貝塚と言われています。石山貝塚で多数出土したセタシジミは、大きさが2~3cmもあり、現在普通に見られるセタシジミ(1~1.5cm程度)よりかなり大きいものです。粟津湖底遺跡の貝塚から出土したセタシジミも同様です。縄文時代の貝塚から出土するセタシジミは皆このように大きいのです。
石山貝塚の存在は戦前から知られていましたが、昭和24年8月の西田弘氏(当時は大津市立打出中学校教官)による調査を皮切りに、本格的な発掘調査が始まります。特に、昭和25~29年にかけて坪井清足氏(のちの奈良国立文化財研究所所長)の指導により行われた、平安学園考古学クラブによる発掘調査では、貝塚の詳しい様子がわかる大きな成果が得られました。この調査には、近隣の高校生・大学生に加えて、大津市立打出中学校の生徒さんたちも夏休みを利用して参加しました。
発掘調査の結果、石山貝塚が形成されたのは、縄文時代早期後葉から末頃(今から約7,000年前)であることがわかりました。特に、貝塚の始まりから最盛期にかけての土器は、南関東から東海地方にかけて広がる条痕文土器の系統に属するものでした。三浦半島など南関東の海岸部では、早い時期から漁労を取り入れた生活が始まっており、こういった生活文化が土器と共にこのころ琵琶湖岸へ及んできたと考えられます。
石山貝塚の調査では、土器や石器以外に、貝殻や獣骨などの動物遺体を分析して周辺の環境復元を行うといった、当時としては画期的な研究も進められました。その結果、遺跡の周辺には、水域と陸域の境目にあたる推移帯(エコトーン)の広がっていた様子が復元されています。推移帯というのは生物にとって重要な場所であり、生息する生物の種類も個体数も共に多いことが知られています。縄文時代の琵琶湖南部〜瀬田川沿いは、セタシジミの生息に特に適した環境だったようで、粟津湖底遺跡のセタシジミを分析したところ、個体の成長が今より速かったことがわかっています。おそらくその結果、大きなセタシジミがたくさん生息することになったのでしょう。石山貝塚からは、貝類以外にも、シカやイノシシ、キジ、コイ、フナ、イシガメ、スッポンといった様々な動物遺体が出土しており、多様な生物(=食料)に恵まれた環境であったことがわかります。
同じころ、琵琶湖の周りでは、米原市磯山城遺跡、近江八幡市弁天島遺跡、守山市赤野井湾遺跡などに、人々の住み着いた様子が知られています。これらの遺跡に貝塚は残されていませんが、おそらく、石山貝塚の大きなセタシジミが象徴するような、琵琶湖沿岸に広がる推移帯の豊かな生物資源が、この地に人々を呼び寄せたのでしょう。こうして琵琶湖のほとりに人が定住することになり、以後現在まで続く、琵琶湖と人の切っても切れない関係が始まることになったのです。