写真左側は須恵器(すえき)と呼ばれる硬質の土器です。この蓋付きの坏(つき)のなかに右側の和同開珎(わどうかいちん)が25枚も入っていました。昭和32年(1957)以前に、高島市マキノ町蛭口(ひるぐち)において地元住民が見つけたと伝わります。出土場所は集落の北東側にある若宮八幡宮を中心とした宮遺跡といわれますが、詳しい出土状況などはわかっていません。出土品の特徴を手掛かりに、これが出土した歴史的背景について探ってみましょう。
和同開珎は和銅元年(708)の初鋳です。日本が文明国と認められるため、当時の先進国であった中国(唐)にならって律令国家の制度を整えるべく、唐の開元通宝をモデルにつくられました。日本最初の流通貨幣と言われますが、当時は米や布を基準とした物々交換が主流であり、税もまた物納でした。そもそも人々には通貨という概念がありませんでしたから、なかなか流通しないのも当然でした。和同開珎は宝物とみなされ、祭祀や呪術などにも用いられました。
一方、須恵器の蓋坏は8世紀前半頃につくられた特徴をもっています。和同開珎がつくられて間もない奈良時代、これを容器として和同開珎を埋納したと考えられます。そして、この坏の底裏には「符(ふ)」の墨書があります。符とは、律令制において上級の役所から下級の役所に対して命令を下す際に用いる公文書をいいます。このことを踏まえて想像をたくましくすると、符に基づいて命令を受けた担当役人が、これを埋納したと考えることも可能です。そして、これを地鎮にかかわる祭祀行為とみれば、符の命令内容はたとえば公的な土木工事にかかわることと推定することもできるでしょう。
当地付近は古代においては近江国高島郡鞆結郷(ともゆいごう)のあったところです。また、この郷には鞆結駅も設置されていましたから、符の命令内容はあるいは北陸道関係の施設整備にかかわることであったのかもしれません。
和同開珎は和銅元年(708)の初鋳です。日本が文明国と認められるため、当時の先進国であった中国(唐)にならって律令国家の制度を整えるべく、唐の開元通宝をモデルにつくられました。日本最初の流通貨幣と言われますが、当時は米や布を基準とした物々交換が主流であり、税もまた物納でした。そもそも人々には通貨という概念がありませんでしたから、なかなか流通しないのも当然でした。和同開珎は宝物とみなされ、祭祀や呪術などにも用いられました。
一方、須恵器の蓋坏は8世紀前半頃につくられた特徴をもっています。和同開珎がつくられて間もない奈良時代、これを容器として和同開珎を埋納したと考えられます。そして、この坏の底裏には「符(ふ)」の墨書があります。符とは、律令制において上級の役所から下級の役所に対して命令を下す際に用いる公文書をいいます。このことを踏まえて想像をたくましくすると、符に基づいて命令を受けた担当役人が、これを埋納したと考えることも可能です。そして、これを地鎮にかかわる祭祀行為とみれば、符の命令内容はたとえば公的な土木工事にかかわることと推定することもできるでしょう。
当地付近は古代においては近江国高島郡鞆結郷(ともゆいごう)のあったところです。また、この郷には鞆結駅も設置されていましたから、符の命令内容はあるいは北陸道関係の施設整備にかかわることであったのかもしれません。
( 北村 圭弘 )