黒川翠山(くろかわすいざん)は明治15年(1882)に京都市上京区の呉服商を営む家に生まれ、62歳で亡くなった写真家です。父に代わって若くして家業を継ぎましたが、18歳ごろから写真家を志して独学で撮影技術を習得し、明治39年(1906)に日露戦争戦捷記念博覧会に「雨後」を出品し、これが名誉銀牌を受けたことから、その名が広く知られることとなりました。当時はフィルム撮影ではなく、ガラス乾板といわれる無色透明のガラス板に光を感光する銀塩の乳剤を塗ったものを使用しており、写真乾板、乾板と呼ばれています。
黒川翠山が撮影したガラス乾板は、その死後ご子息によって文化館をはじめ、金閣寺、平安神宮、京都府立京都学・歴彩館、東京都写真美術館など、撮影地に縁の施設等に寄贈されました。文化館ではガラス乾板をはじめ、アルバム2冊、絵はがき集を所蔵しています。
ガラス乾板は大部分が比叡山を撮影したものであり、天候や光の差し込み具合によって姿を変える山並み、あるいは根本中堂、横川中堂など延暦寺の諸塔が撮影されています。アルバムの1冊にはこのガラス乾板と同じ系統の写真52点が収められており、もう1冊には琵琶湖の風景写真32枚が収められています。これは1922年に太湖汽船が就航させた「みどり丸」に乗船しての琵琶湖クルーズの様子を撮影したものであり、写真は3人の「モガ(モダンガール)」をモデルに撮影されたものです。3人のモガたちは、みどり丸に乗船し、デッキから紙テープを手に持って出港。竹生島に立ち寄り宝厳寺や都久夫須麻神社に参詣し、神社ではカワラケ投げをする姿も撮影されています。また、船室で食事をしたり、デッキに設置された双眼鏡で琵琶湖の風景を眺めたり、ダンスを楽しんだり、船を下りて釣りに興じる姿が残されています。このほかに、多景島や海津大崎、堅田浮御堂などの琵琶湖の風景を見ることができます。
いずれの写真も大判で撮影されており、ガラス乾板を見るだけで、そこに写り込んだ被写体を包む光の輝きや空気感などが伝わってくるようです。
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