大正3年(1914)春3月、迪宮裕仁(みちのみやひろひと)殿下(後の昭和天皇)が学習院初等科を卒業され、将来の天皇となるために、「東宮御学問所」が創設されました。歴史、文学、語学など、それぞれ専門の当代一流の学者たちが担当に選ばれましたが、皇太子教育の中核である倫理・帝王学の担当者の人選は難航し、一ケ月以上かかっても結論が出ませんでした。人選を急ぎたい東宮大夫の浜尾新(あらた)は、東京帝大総長山川健次郎に相談しましたが、「恥ずかしながら帝大教授中には一人もしかるべき人はいない」「しかし民間に一人います」といって推挙したのが、杉浦重剛です。
京阪電車石坂線「瓦が浜」駅周辺は、大津市杉浦町といいます。元は南浦という地名でしたが、昭和39年の町村合併時に当地出身の杉浦重剛にちなんで杉浦町としました。「瓦が浜駅」から徒歩5分ほど、白壁の土塀に囲まれた旧宅が建っています。現在は大津市の管理で、内部公開もしています。
杉浦重剛は、安政2年(1855)近江国膳所藩の儒者の家に生まれました。名は「しげたけ」あるいは音読みして「じゅうごう」とも呼ばれます。明治3年(1870)15歳で上京し、大学南校(現在の東京大学)に学びました。明治新政府は新しい時代を担う人材を育成するため、各藩に俊秀な若者を選んで送るように命じ、膳所藩から選ばれたのが杉浦でした。猛勉強の結果、政府留学生に選抜されてイギリスで化学を学び、帰国後は東京大学予備門長に就任し、東京大学を目指す若者達に英語教育を施す「日本中学校」を設立。さらに、文部省参事官、衆議院議員などを歴任、自宅内に開設した「称好塾」は、福沢諭吉の「慶応義塾」と並ぶ有名私塾となりまし。しかし、塾では学科授業はなく、授業がないのに入塾してくるのは、杉浦の人格に惹きつけられたからだといいます。自由な雰囲気の中に節制があり、お互いに切磋琢磨する環境は、多くの人材を輩出しました。我が国鉄道の近代化に貢献した島安次郎(1870~1946)もその一人です。知人であった詩人で文豪の大町桂月(1869~1925)が「称好塾」に入塾したのを契機に島も入塾、杉浦から多くのことを学びました。 琵琶湖文化館には杉浦重剛の自筆の書跡、肖像画、大礼服、モーニングなど多くの資料が残されていますが、その多くは、島安次郎の関係者から寄贈されたものです。
大正3年6月22日、第1回のご進講が行われました。その時の心境を杉浦は、「数ならぬ身にしあれば今日よりは我身にあらぬ我身とぞ思う」と和歌に詠んでいます。杉浦は自宅の小石川から学問所のある高輪まで人力車で通っていましたが、いつも予備の車夫を伴い、途中何があっても十分間に合うよう家を出たといいます。親を思う孝心として中江藤樹の事や、養老の滝伝説など、倫理をわかりやすい言葉で説きました。
大正7年(1918)久邇宮良子(くにのみやながこ)女王が皇太子殿下のお后として内定し、将来の皇后のための御学問所が創設され、杉浦はこちらの学問所でも倫理担当に任命されました。しかし、大正10年(1921)に良子女王の母系島津家に色盲の遺伝があり、皇太子妃には不適格として、元老山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退を迫りました。長州閥を率いる山縣にとって、薩摩から将来の皇后が出るのを止めようと画策したものと言われています。この策謀に杉浦は立ち上がりました。学問所を辞し一私人として山縣に立ち向かい、すでに内定しているご婚約を取り消すのは、お相手に対しても天下に対しても信を失う。仁愛を持って本文とする皇室にとって言うまでもないと。このニュースは「宮中某重大事件」として世人の知るところとなり、やがて「皇太子妃内定に変更なし」と発表がなされまりた。
大正12年(1923)9月1日、関東を襲った大震災は甚大な被害をもたらしました。この年予定されていた皇太子ご成婚の祝典は、皇太子の発意で半年後に延期されました。杉浦が説いた仁愛を皇太子が実行されたのです。「ありがたいこと」と杉浦は病床で合掌しました。大正13年1月26日、全国民祝賀のうちにご成婚の儀が執り行われ、それを見届けたかのように、2月13日杉浦は68歳で生涯を閉じました。
杉浦重剛関係資料は、令和元年(2019)7月27日(土)から9月29日(日)の間、甲賀市土山歴史民俗資料館にて開催された琵琶湖文化館地域連携企画展「歴代天皇と近江-琵琶湖文化館 館蔵品より-」に出展されました。
京阪電車石坂線「瓦が浜」駅周辺は、大津市杉浦町といいます。元は南浦という地名でしたが、昭和39年の町村合併時に当地出身の杉浦重剛にちなんで杉浦町としました。「瓦が浜駅」から徒歩5分ほど、白壁の土塀に囲まれた旧宅が建っています。現在は大津市の管理で、内部公開もしています。
杉浦重剛は、安政2年(1855)近江国膳所藩の儒者の家に生まれました。名は「しげたけ」あるいは音読みして「じゅうごう」とも呼ばれます。明治3年(1870)15歳で上京し、大学南校(現在の東京大学)に学びました。明治新政府は新しい時代を担う人材を育成するため、各藩に俊秀な若者を選んで送るように命じ、膳所藩から選ばれたのが杉浦でした。猛勉強の結果、政府留学生に選抜されてイギリスで化学を学び、帰国後は東京大学予備門長に就任し、東京大学を目指す若者達に英語教育を施す「日本中学校」を設立。さらに、文部省参事官、衆議院議員などを歴任、自宅内に開設した「称好塾」は、福沢諭吉の「慶応義塾」と並ぶ有名私塾となりまし。しかし、塾では学科授業はなく、授業がないのに入塾してくるのは、杉浦の人格に惹きつけられたからだといいます。自由な雰囲気の中に節制があり、お互いに切磋琢磨する環境は、多くの人材を輩出しました。我が国鉄道の近代化に貢献した島安次郎(1870~1946)もその一人です。知人であった詩人で文豪の大町桂月(1869~1925)が「称好塾」に入塾したのを契機に島も入塾、杉浦から多くのことを学びました。 琵琶湖文化館には杉浦重剛の自筆の書跡、肖像画、大礼服、モーニングなど多くの資料が残されていますが、その多くは、島安次郎の関係者から寄贈されたものです。
大正3年6月22日、第1回のご進講が行われました。その時の心境を杉浦は、「数ならぬ身にしあれば今日よりは我身にあらぬ我身とぞ思う」と和歌に詠んでいます。杉浦は自宅の小石川から学問所のある高輪まで人力車で通っていましたが、いつも予備の車夫を伴い、途中何があっても十分間に合うよう家を出たといいます。親を思う孝心として中江藤樹の事や、養老の滝伝説など、倫理をわかりやすい言葉で説きました。
大正7年(1918)久邇宮良子(くにのみやながこ)女王が皇太子殿下のお后として内定し、将来の皇后のための御学問所が創設され、杉浦はこちらの学問所でも倫理担当に任命されました。しかし、大正10年(1921)に良子女王の母系島津家に色盲の遺伝があり、皇太子妃には不適格として、元老山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退を迫りました。長州閥を率いる山縣にとって、薩摩から将来の皇后が出るのを止めようと画策したものと言われています。この策謀に杉浦は立ち上がりました。学問所を辞し一私人として山縣に立ち向かい、すでに内定しているご婚約を取り消すのは、お相手に対しても天下に対しても信を失う。仁愛を持って本文とする皇室にとって言うまでもないと。このニュースは「宮中某重大事件」として世人の知るところとなり、やがて「皇太子妃内定に変更なし」と発表がなされまりた。
大正12年(1923)9月1日、関東を襲った大震災は甚大な被害をもたらしました。この年予定されていた皇太子ご成婚の祝典は、皇太子の発意で半年後に延期されました。杉浦が説いた仁愛を皇太子が実行されたのです。「ありがたいこと」と杉浦は病床で合掌しました。大正13年1月26日、全国民祝賀のうちにご成婚の儀が執り行われ、それを見届けたかのように、2月13日杉浦は68歳で生涯を閉じました。
杉浦重剛関係資料は、令和元年(2019)7月27日(土)から9月29日(日)の間、甲賀市土山歴史民俗資料館にて開催された琵琶湖文化館地域連携企画展「歴代天皇と近江-琵琶湖文化館 館蔵品より-」に出展されました。
( 上野 良信 )