中央に広大な琵琶湖を描き、画面向かって左から三井寺、比叡山比良山と山並みが連なり、中央あたりに湖東の山容がのぞき、近江富士の威名をとる三上山、湖南の山々が続き、右端に大津の町並みが描かれ、瀬田の唐橋は松並木の先にかすむ。大津から琵琶湖(南湖)を鳥瞰的に眺めた構図で、一見写生画のようなのどかな風景画であるが、実はこの絵には重要な事柄が描かれている。
画面右下には、湖岸に沿った町中を通る行列が描かれている。カラフルな服装の人々は明らかに異国風で、正装した馬上の人物は高貴な人なのだろう。団扇や傘を持つ者、槍や矛を持つ者の間に、清道旗(せいどうき)がひるがえる。よく見ると、曲がりくねった松並木の先の方まで人影が見える。大行列である。これがこの絵を“超有名”にしている朝鮮通信使だ。朝鮮通信使とは、豊臣秀吉の朝鮮侵略のあと、双方の信頼回復を願う徳川家康の熱い要請に応えて、慶長12年(1607)、第1回の使節団がわが国に派遣された。以降200年あまりの間に12回派遣されている。毎回およそ400人~500人で構成される大使節団は、徳川幕府の慶事や将軍の代替わりのたびに、朝鮮王国の国書を携えて日本を訪れた。
野洲の行畑で中山道と分かれる街道は、永原・八幡・安土・彦根とつづいて鳥居本で中山道と合流する。この道が朝鮮人街道と呼ばれたのは、朝鮮通信使の一行が使用した道であったからだ。オランダや琉球の使節は東海道を通行したのに、なぜ朝鮮通信使がこの道を通ったのか。朝鮮通信使を差別したためとか、曲がりくねった道により、国土をより広く見せるためとか諸説あるがいずれも誤りである。そもそもこの街道は、将軍の上洛道であり、朝廷の勅使も通行した要路であった。したがって古文書の中には「御所街道」と記したものがあり、八幡や彦根などの要地での接待を重視し、朝鮮通信使を優遇した行程であった。
「琵琶湖図」は、図中の款記により、文政7年(1824)、円山応震34歳の作品であることがわかる。しかし、朝鮮通信使一行が近江を訪れた最後が宝暦14年(1764)のことであるから、実際に見たわけではない。朝鮮通信使のもたらしたエキゾチックな文化の数々は、人々に強烈な印象をのこし、消え去ることはなかったようだ。現在も、朝鮮通信使をモデルにした神事芸能が各地に残っている。
※本図は、平成29年(2017)10月31日に、ユネスコ世界の記憶(世界記憶遺産)に「朝鮮通信使に関する記録」の一つとして登録されました。 |