梅は厳しい冬を堪え忍んで花を咲かせ、いち早く春の訪れを告げてくれることから「百花のさきがけ」と言われています。梅は中国が原産地で、一説によると、奈良時代の遣唐使によって日本にもたらされたました。現在では春の花と言えば「桜」をイメージしますが、古く奈良時代では「梅」が春を代表する花でした。
唐風の奈良時代の文化の中で大変好まれた梅ですが、平安時代になると、日本文化の国風化が進み、人々の関心は次第に桜に移っていきます。鎌倉時代の「新古今和歌集」ではすっかり「花は桜」として受け入れられ、梅は春を告げる花として詠まれます。しかし、桜が一般にもてはやされる一方で、梅は文人などの中国文化に造詣のある人々に好まれました。
さて、今回ご紹介する中林竹洞(なかばやし ちくとう:1776~1853)は江戸時代後期の文人画家です。名古屋の産科医を営む中林玄棟の子として生まれ、南画家の山田宮常(やまだ きゅうじょう:1747~93)や、名古屋の鑑賞家として知られた神谷天遊(かみや てんゆう:1721~1801)の門下に入ります。神谷天遊は中国絵画に造詣が深く、竹洞は生涯の師として仰ぎ、彼の下で中国の元から清までの絵画の臨模に励んで研鑽を積むなどして、中国絵画に傾倒します。また、自身の画論の中でも古画の学習を説き、特に明代の南宋画の作品を重視しました。このように、竹洞は中国絵画を学び、自らの作画に活かしたことによって、当時の文人画の第一人者と称されるようになりました。
「月下梅図」が描かれたのは竹洞63歳の時です。「梅月」は二月の季語であり、本図は二月の梅花をモティーフとした作品です。この一幅は絹本墨画で、竹洞ならではの厳しい筆使いで、梅の枝振りを描き、するどい小枝に梅の花が咲く様子を描いています。梅を愛でるというよりも、張り詰めたような厳しさを感じさせます。
冬の厳しい寒さの中で毅然と花を咲かせる梅の様は、時勢に流されずに作画活動を続けた竹洞自身を描いているかのようです。竹洞は当世の流行に乗れば稚拙な絵でも認められるという画壇の風潮に危惧を抱いていました。竹洞にとって絵を描くことは精神を高めることと同じで、自らの技術を駆使して作画することで、画道を正しい道に導くという志を持っていました。竹洞は画家としての生き方に対しても大変ストイックだったと言われており、自らに求める厳しさがこの「月下梅図」にあらわれているように思います。
( 稲田 素子 )
※「月下梅図」は令和5年(2023)2月4日から4月2日まで、滋賀県立安土城考古博物館で開催された、地域連携企画展「琵琶湖文化館収蔵品にみる四季」に出展されました。