(法量:縦154.5cm×横356.2cm)
桃山画壇の巨匠・海北友松(かいほう ゆうしょう:1533~1615)は、湖北小谷城主浅井家の重臣海北綱親の三男として生まれました。武門の習わしでは、長子以外は養子か出家させられるのが常で、友松もまた幼くして出家し、京都・東福寺に入って禅僧として修行に励んでいました。しかし、織田信長の小谷城攻略で、海北家の一族も皆、主家と運命を共に戦死したため、一人残った友松は還俗し、絵師として成功することによって家名を再興したのです。
友松といえば、建仁寺の塔頭や本坊大方丈の水墨障壁画をはじめとする数々の大作から、水墨画家としてのイメージが強いでしょうが、本図のような金碧の屏風絵も描いています。
池畔の周囲に直立する檜の林をあらわし、背景はすべて金地とする、まことに簡素な図様構成を見せ、檜の葉に濃い緑青(ろくしょう)を、幹枝(かんし)や土坡(どは:小高く盛り上がった地面)などにそれぞれ淡く代赭(たいしゃ:赤褐色の顔料)や淡藍色を施す彩色法を含め、基本的な手法は狩野派を踏襲しています。大小二つに分岐した丸いテーブル状の土坡や、前方に迫り出る特徴的な檜の根の表現、さらに、幹の下方をぼかして霞の中に立っているように見せる樹木表現などは、多くの友松画に見られる友松特有の手法です。
本図の制作年代は確かではありませんが、署名の書体は、慶長7年(1602)に制作されたことが明らかな作品と近似しています。現存する友松の金碧画中、最も早い時期に位置づけられ、力強くも重厚な雰囲気を備えた金碧画の名品として注目されます。
本図は令和2年(2020)に、滋賀県立安土城考古博物館で開催された琵琶湖文化館地域連携企画展「安土・桃山時代の近江展 琵琶湖文化館の収蔵品を中心に」に出陳しました。
【令和5年(2023)3月17日 滋賀県指定有形文化財に指定されました。】