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「聖衆来迎寺の名宝」虫干会展で、大河登場予定の三法師に会おう!

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」に注目してきた本ブログ、近江ゆかりの明智光秀も退場して少し寂しい気分です。
しかも!次週の8月2日はお休み(放送休止)で、次回放送は8月9日の第30話「清須会議」となるそうではありませんか⁉一層寂しいニュースです。
ですが、楽しいニュースもありますよ~!

「清須会議」は天正10年(1582)6月27日に羽柴秀吉が主導して尾張清須城で行われ、織田家後継者を信長の孫・三法師(織田秀信:1580~1605)に決定した会議としてあまりにも有名です。
歴史ドラマ定番のハイライトシーンは、秀吉が幼い三法師を左肩に抱き上げ家臣らを睥睨し、「上様の御前である、頭が高い!」と一喝する場面です。江戸時代刊の『絵本太閤記』で初めて絵に表現されたこのシーンは、浮世絵や歌舞伎などで繰り返し描かれて、今や日本人の常識と化した感があります。
三法師こと織田秀信(1580~1605)は信長の 嫡男・信忠のさらに嫡子(嫡孫)で、織田家第三代の当主となりました。安土城、坂本城、さらに岐阜城などを転々とした後、天下を掌握した秀吉のもとで元服して秀信と名乗り、のちに羽柴姓を与えられて「岐阜中納言」と呼ばれるに至ります。洗礼名をペトロと称したキリシタン大名でもありました。

慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では西軍に属して岐阜城で籠城し激戦したものの降伏し、高野山に送られます。さらに慶長10年、高野山からも追放されました。その後まもなく死去しますが、最期を迎えた事情については諸説あり、詳しいことはよくわかっていません。
ところが、この織田秀信が聖衆来迎寺で供養されているのです!母の徳寿院とともに当寺に位牌があり、肖像画も存在します。本ブログでは同様のエピソードが他にも森可成、陰優妙森禅定尼(浅野長吉母)と相次いでいますので、「またか」と思われ誰が誰だか混乱されているかも知れません。ですが、今回のお方は琵琶湖文化館に肖像画が寄託されているのでわかりやすい(ハズ)!これが、大人になった三法師のお姿です。聖衆来迎寺には、実に多くの戦国武将とその家族が関わっているのです。

8月16日(日)開催の地域連携企画展「聖衆来迎寺の名宝」虫干会で、織田秀信肖像画の実物を展示します!御来寺の際には『要チェック』ですよ~♪
※ちなみにこの肖像画、8月9日(日)までは大津市歴史博物館で開催中の企画展「豊臣秀吉と大津」(前期展示)でも公開中ですので、16日に御来寺になれない方については、そちらでも御覧になれます。
聖衆来迎寺は浅野長吉の母を弔った 何ゆえに?

あきつブログ的:久しぶりにNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の話題です!
藤堂高虎、宮部継潤、織田信澄ら近江出身、もしくはゆかりの深い武将が多数活躍しているこのドラマ、触れたいエピソードは多いのですが、前回(7月19日)は「本能寺の変」を受けて、秀吉の居城・長浜城へ走りねね(演:浜辺美波)をはじめ女性たちを救出する浅野長吉(演:大地伸永)の姿が描かれましたね(史実として、脱出劇に長吉が関与した可能性は低いですが)。

浅野長吉(長政、1547~1611)は秀吉の一門衆として活躍した著名な武将です。尾張国に父・安井重継と母・浅野氏(実名は不明)との間に生まれ、叔父である浅野長勝の養女・やや(演:増井湖々)の婿養子となりました。同じく長勝の養女となっていた、ねねが秀吉に嫁いだことから、長吉は織田家臣団の中でも早くから秀吉の与力として活動していたようです。
そうした近しい関係から、長吉は本能寺の変後も秀吉に仕えて中国大返しや山崎合戦、賤ケ岳合戦などで功績を挙げ、天正11年(1583)8月に近江瀬田城(大津市)2万石余の城主となり、同年11月には坂本城へ移りました。同14年に秀吉の命で坂本城を廃城して大津城を築城することになりますが、それまでの間長吉は坂本城主として城下を治めていたのです。

(旧坂本城の城門遺構)
文禄4年(1595)11月14日、長吉の実母が亡くなりました。そのお弔いは旧坂本城下の聖衆来迎寺で行われたようで、同年に作成された『来迎寺過去帳』の中に、年間物故者の一人として「陰優妙森禅定尼 浅野弾正様御母」の名が見えます。

お墓も同寺に存在したようですが、墓石銘の摩滅も進んでどのお墓がそうなのかは特定に至っていません。

浅野長吉の実母については伝えられるエピソードが少なく、現在までの段階で大河ドラマの中での登場もありません。しかしながら、法名からおして息子や一族の安寧を陰から支え、優しく見守った女性だったのではないでしょうか。そうした女性が、息子(長吉)や孫(幸長)が近江国を離れて甲斐国に転封していた文禄年間に、聖衆来迎寺に葬られた事情についても謎があります。
長吉の母は、息子たちが近江を離れた後も琵琶湖を望む聖衆来迎寺の近くに隠棲し、静かな晩年を過ごしたのかも知れません。
8月16日に聖衆来迎寺を会場に開催する滋賀県立琵琶湖文化館地域連携企画展「聖衆来迎寺の名宝」虫干会では、謎を秘めた『来迎寺過去帳』の実物も展示します!みなさんも御覧になって、戦国のロマンに思いをはせてください。
滋賀の文化財講座『花湖さんの打出のコヅチ』第3回 書は人格なり!

7月15日、滋賀の文化財講座「花湖さんの打出のコヅチ」の開講日。
大津市の日中の気温は34.6℃!猛暑日に迫る暑さの中、会場にお越しいただいた皆さま、誠にありがとうございました♪第3回目となる本講座、その内容も気温に負けずアツかった!!今回は「昭和100年の書画」と題し、当館の寺前公基学芸員がお話しさせていただきました。

「書にはあまり興味がなかった」とおっしゃっていた皆さま……実は、そうではなかったでしょう!?「難しそう」「とっつきにくそう」と言われがちな書の世界。 なのに、寺前学芸員の講座では、なぜか会場から「クスッ」と笑いが起こり??今回の講座も、いたるところに「驚き」と「納得」、そして「笑い」が散りばめられていました♪

まずは、琵琶湖文化館が開館した翌年の展覧会「ここ百年書蹟展」を振り返り。当時の会場の様子を伝えるモノクロ写真を紹介しつつ、(自慢ではないですが…と控えめながら)この展覧会が戦後の日本の博物館全体においても「書」を特集した画期的なものであった、と評価(やっぱり大自慢!笑)。
当時、なぜその作品が展示されたのか? そこに隠された意図や館としての熱い意気込みを、作品の解説から丁寧に紐解いていきました。

(テレビ取材の様子)
あまりにも詳しい解説に、「寺前学芸員、もしや当時その場にいたのでは…?」と思ってしまうほど!(ないナイ、それは絶対にないです。笑)
明治から昭和にかけての作品が並んだ「ここ百年」展でしたが、その後の琵琶湖文化館の歴史(ここ64年間)の中で、新たに『中国の皇帝によって書かれた希少な書』が寄託されたというビッグニュースも明かされました!!マジですかっ!!!(気になる方は、ぜひ講座のチラシをよーくご覧くださいね★)

お話はさらに、昭和の書の特徴へと進みます。昭和の書が大きく発展した背景には、「調和体(漢字かな交じりの書)」や、実印などにも使われる古くて新しい書体「篆書(てんしょ)」の普及があったとのこと。講座では、東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)や小野成鵞(おの せいが)、大田左卿(おおた さきょう)らの名筆を詳しく解説。さらに、ハンコに刻まれる「篆刻(てんこく)」に豊かな絵画性と芸術性を見出し、世に広めた大津出身の篆刻家・園田湖城(そのだ こじょう)の功績と、その個性あふれる作品も紹介されました。

昭和という時代、書が文人趣味の世界から現代的な「芸術」としての創作へと進化し、より個性的な表現が求められるようになった・・・。寺前学芸員は、その一端には「博物館で作品が展示され、一般の人々が過去の名筆を目にする機会が増えたこと」も大きな要因だったと語ります。=す・な・わ・ち=「それこそが、まさに琵琶湖文化館がこれまでやってきたこと!そして、その意志は新しい琵琶湖文化館へも、絶対に引き継いでいく!」と、力強い宣言も飛び出しました!
ねぇ皆さん、新しい琵琶湖文化館で、当館が収蔵する素晴らしい書の作品を見るのがとっても楽しみになりましたよね!さらには、「令和の皆さんが書く個性的な書を展示する、ギャラリースペースとしてもぜひ活用してほしい!」という、呼びかけも。 これは今から本当に楽しみです!!
「昭和100年」という演題から、琵琶湖文化館の歴史とその存在意義、そして新しい琵琶湖文化館へのバトンまで、見事に語りまとめ上げられた今回の講座。「書は人格なり!」 —そう熱く語り、書をこよなく愛する寺前学芸員…さすがでございます!(笑)!
では最後に皆さまへ、復習を兼ねたプチクイズです!

Q1. この篆刻(てんこく)の読み方は「益」。では「覚え方」は? (※ヒント:この漫画を知っているアナタは、ズバリ昭和世代?!笑)
Q2. 150年前に中国で「竜骨」を買い求め、甲骨文字を発見した人物の名前は?
――おやおや?講師先生のギャグのセンスについては……もう少し鍛えていただいた方がよろしかったかしら??(おぉいぇ~い!)
気を取り直して、最後の問題です。

Q3. 琵琶湖文化館の「中の池」でボートに乗り、吉井勇の歌碑にたどり着いて、真剣な表情で拓本を採り、その出来栄えに超ご満悦♡だったのは、一体どこの誰??
(ここ一番、皆さんに笑ってもらえたかも?!良かったですね♡寺前学芸員!)
〔詳しい内容を知りたい方は6月23日付けのブログをご覧ください🌟〕
『湖国と文化』夏号の特集は「書の国・近江」です!

いよいよ本格的な夏の到来を予感させる今日この頃・・・、滋賀県の文化を情報発信する『湖国と文化』196号(2026年7月夏号)は、「書の国・近江」の特集です。
「書」を取り上げてくださるなんて…これまであまりなかった試みの特集は、昨年より熱い要望があり、県文化財保護課職員と琵琶湖文化館の書跡担当学芸員がタッグを組んで、原稿執筆と写真撮影を行いました。お声がけ感謝、感謝です。
〈祈り・求法の器〉として「延暦寺の書」「三井寺の書」「石山寺の書」と近江の名刹に伝わる書からはじまります。〈歴史の証言者〉として「近江の墨蹟」「雨森芳洲と朝鮮通信使の書」「幕末の雄藩と明治の三筆」…、全部言いたいところですが、そちらは本誌でご確認ください。充実のコラムは、県内の文化財にかかわる執筆者たちによる多彩なラインナップとなっていますので、ご期待ください。
掲載している作品は、国宝・重要文化財の名品のほか、琵琶湖文化館収蔵品からは、旧膳所藩士・斎藤求の旧蔵品を中心に構成された「斎藤虚心斎コレクション」、昨年寄贈を受けた「中神コレクション」も含まれています。また、昨年度に県指定文化財となった近江八幡市・大圓寺所蔵の「浄土和讃断簡」もお披露目です。
そのほか、誌面には琵琶湖文化館の彫刻担当、和澄学芸員による好評連載「近江の里の仏たち」も掲載されています。これは見なきゃ損、損!

できあがった本誌を見て、「近江の書の特集なんて、二度とないかも!?」という実感もありますが、第2弾、第3弾があるのかないのかは、この特集の反響次第ですので、ぜひご覧ください!
『花湖さんの打出のコヅチ』第2回ご質問にお答えします✨

去る6月17日(水)に、令和8年度滋賀の文化財講座『花湖さんの打出のコヅチ』第二回「八景とその絵画」を開催しました(6/18付ブログ)!アンケートではさまざまなご感想をいただき、中には素敵な「自分八景」(?!)を書いていただいた方もいらっしゃいました😊
さて、アンケートの中で、最も多かったある質問に、担当学芸員がお答えいたします。

Q. なぜ「八」景なの?
ご質問ありがとうございます!この話題、担当学芸員も講座の中でお伝えしたかったのですが、時間の都合上、泣く泣く端折ってしまったところなのです💧
なぜ「八」景なのか、決まった説はいまだありませんが、「八」という数字が持つ意味から、ある程度その成り立ちを想像することができます。
数字の「八」は東アジアの漢字圏において、「八方(はっぽう:あらゆる方角の意)」「八紘(はっこう:全世界の意)」「八洲(やしま:数多くの島、転じて日本全土の意)」というように、全ての方角・場所を表す際に使われます。

身近な例で言えば、誰に対しても(どの方向にも)愛想よく振る舞う人を「八方美人」と言ったり、どの方面にも差し障りがあって手の打ちようがないことを「八方塞がり」と言ったりしますよね♪
このように考えると、「八」という数字は、ある地域の風景の「すべて」を一言で表すのに、ぴったりの数字に思えてきませんか?「瀟湘(しょうしょう)八景」や「近江八景」など、数字の「八」を使った呼び方は、瀟湘や近江の風景を一言で言い表すものとして、捉えられてきたのかもしれません。また、選ばれた八つの景色は、その地域全体を代表する、つまり「この八つさえ押さえればあなたも○○(瀟湘/近江)通!」と見なされる景色だったのかもしれません。

また、風景の名称に数字が使われたこと自体も重要です。数字には創作意欲を掻き立てる魔力がある、と言われることがあります。アンケートで「自分八景」を書いてくださった方は、まさに数字に創作意欲を掻き立てられてしまった実例と言えるのではないでしょうか✨

講座では、元祖八景である中国・瀟湘八景に憧れたかつての日本人たちが、様々に独自の八景を創作していったことをお伝えしました。今の日本に、近江八景をはじめとする八景が数多く残っているのは、たくさんの人がこの「八」という数字の魔力に魅せられた結果なのかも??みなさまも気の向くままに自分だけの八景を作ってみてはいかがでしょうか🌟